2019.08.19
【Web特別記事】ドキュメント
「あの熱狂をもう一度」
福井陸協の情熱が創り出した
伝説の夜Athlete Night Games in FUKUI
競技会をやりたい
2017年9月9日、福井県営陸上競技場。この時、この競技場にまだ愛称はついていなかった。
日本インカレ男子100m決勝。東洋大4年だった桐生祥秀が日本人で初めて10秒の壁を突破する、9秒98をマークした。桐生は雄たけびを上げ、スタンドで仲間に声援を送る学生たち、そして観客たちの視線と歓声が一極に集中。スタジアムは興奮のるつぼと化した。のちに、「9.98スタジアム」と親しまれるようになる。
「陸上でこんなにも盛り上がることができるのか」
福井陸協専務理事を務める木原靖之先生(敦賀高)はじめ、関係者もまた、同じように感激に浸った。その翌年には、国体を福井で開催。福井県スポーツ協会所属の110mハードルの金井大旺(現・ミズノ)、800mの村島匠という2人が大会新で制すなど、盛況で幕を閉じた。
インカレ、そして国体を終え、木原先生たちの間で「また何かやりたい」という声が上がった。18年11月に金井、村島らと話をしている中で、2人から「福井のために何かできることはありませんか?」と提案があった。
「実は競技会をやりたいんだ」
それならナイターがいい。僕らも出るし、選手を集めます。欧州の雰囲気でやりましょう。次々と2人からアイデアが出た。
夢はどんどん膨らんだ。
福井陸協の会長を務める八木誠一郎氏に話を持ちかけたのが、12月。八木会長は福井国体をもって任期満了の予定だった。
「私が会長を続ける理由は何かありますか?」
「実はこんな競技会を考えています。どこもやっていない大会です。実行委員長として残っていただきたい」
「それはいつできそうなのですか?」
「準備をしていますが、2020年には」
「それでは遅いですね。来年やりましょう」
大企業のフクビ化学工業の代表取締役社長を務めるほどの人物。やると決めたからには速度を持って――。すでの次年度の競技会カレンダー決定も大詰めとなっていたが、木原先生たちはすぐに準備に取り掛かった。
クラウドファンディングで資金集め
しかし、地方陸協にとって、それほどの大会をするには資金が足りない。翌年2月に福井新聞社の関係者と立ち話をしている中で、「クラウドファンディング」という案が持ち上がった。
「やるとは言ったものの、本当に資金が集まるのか、選手が来てくれるのか。不安なままスタートしました」(木原先生)
日程は関係各所に相談し、どのあたりなら選手たちが参加できるかを考慮した末、8月18日に設定された。
クラウドファンディングをするに当たり、「出場する選手が決まらないと資金を集めるのは厳しい」と担当者から話があった。そこで、金井をはじめ選手に持ちかけ、最初に「おもしろい。選手を出しますよ」と応えてくれたのがミズノだった。
飯塚翔太や市川華菜らの参戦が早々に決まり、福井勢と縁深い順大の関係者も参加を表明。クラウドファンディングを始めてわずか12日で、当初の目標金額だった150万を達成した。
トラックの近くに座席を設け、走幅跳も間近で観ることができる。選手との交流もあり、サッカーや野球のようにナイターで2時間ほど密な時間を過ごす。さらに、そのチケット代(支援金)は選手へダイレクトに渡り〝応援〟している気分も味わえる。SNSを中心に、にわかに「どんな大会になるのか」という興味が広がった。
すると、次第に選手や指導者たちから「出たい」「この種目はできませんか」という問い合わせがくるようになったという。走幅跳では、「冗談だろう」と思うほどの選手たちが参加を表明した。
ただ、この競技会をする上で、絶対に欠かせない選手がいた。
桐生祥秀だ。
木原先生たちは何度か関東へ足を運び、桐生本人や土江寛裕コーチらと面談。しかし、スケジュールの都合でなかなか決定できなかった。
それでも、支援の輪はどんどんと増え、出場選手も次々と決定。クラウドファンディングで目標金額を達成、更新を繰り返していく中で、絶対に曲げなかったのは「陸協は一切儲けない」ということ。
「集まった資金は選手の一部を招待費に当て、それ以外はすべて招待レース上位選手への『競技活動支援金』として使おうと決めていました」(木原先生)
つまり「賞金」だ。
「日本の陸上界で他競技のプロ選手ほど稼いでいる選手はほとんどいない。その現状を世間の皆様には知られていません。だから、いろいろな人がアスリートを支えるようなシステムがあってもいいんじゃないか、と。その代わり、選手はいいパフォーマンスを出さないといけないし、運営側はそのための準備をしっかりしないといけない」(木原先生)
陸上競技の競技会のほとんどは「タダ」で見られる。しかし、木原先生は「コンサートにだってお金を出して行く。それはその空間を楽しめるから。だったら、楽しい空間を用意すれば陸上競技だってできる」と言う。それは、あの「9.98の熱狂」で感じたことだった。
資金が集まれば、いろいろな〝誘惑〟も当然あったという。しかし、会議を重ねても「ちょっと待て。今の話題は本当に選手のためになっているか」と仕切り直すことも多々あった。「選手のため。そこだけはブレずに」。こうして、夢の1日は刻一刻と近づいていく。
大会が近づくある日の夜中2時。木原先生に電話が入った。海外からの着信。土江コーチからだった。
「桐生も出場します」
一気に目が覚めて、みんなにメッセージを送った。
さまざまな地元民間企業の支援も広がり、スタジアムDJ、キッチンカーなど準備が進み、ついには地元警察から「どんな対応をされるのか」と問い合わせが入るほどに規模は拡大した。
日本記録ラッシュ
迎えた当日。マスコミも大挙訪れ、メインスタンドはいっぱい。フィールド内のクラウドファンディングリターン席には陸上ファンや家族連れが集まる。
午前中からは、小学生や地元の女子フットサルチームの選手たちが100mを体験。大会でもない、記録会でもない、「陸上競技」を楽しむだけの雰囲気があった。
「この競技場は夕方以降になると、気温が下がり、追い風が吹いて記録が出る〝モンスタースタジアム〟になるんです。今日も出ますよ」
そう木原先生は言った。
午後5時。いよいよ招待種目がスタートする。最初はぎこちなかったDJと観客の息が合ってくる。
男子200m。早くもどよめきが起きる。白石黄良々(セレスポ)が日本歴代9位の20秒27(+0.8)、飯塚翔太、山下潤(筑波大)と3人がドーハ世界選手権の参加標準を突破。そこからは、もう止まらなかった。
走幅跳で日本新の応酬、110mハードル、100mハードルの日本記録。記録を生み出すためだけの空間に、およそ1万人の観客たちは酔いしれた。
林貴裕(順大)や島田雪菜(北海道ハイテクAC)、大久保有梨(ユティック)、川島卯未(中大)ら、地元出身の選手たちも多数参戦。口々に「福井がこんな盛り上がるなんて」と感動した様子だった。
最終種目。男子9.98CUPの100mでは、桐生祥秀があの日と同じ5レーンを駆け抜け、10秒05(+0.9)。風は関係者が「19時過ぎに収まりそう」と予想していた通りになったが、さすがの走りで「伝説の夜」のトリを飾った。
「これだけ日本記録が出ていたので少し残念ですが、とても楽しく走れました。陸上はどうしても〝お金〟となるといやらしい感じになりますが、僕らにとって賞金を勝ち取るというのはすごくモチベーションになります。賞金があるなら、しっかりパフォーマンスをしないといけないし、観客の皆さんがお金を払ってよかったと思える大会にしないといけない。こうして観客と近くで盛り上がって、終わったあと、『次もがんばろう』って思えます。9秒98を出さなかったらスタジアムの名前もなかったし、この大会もなく、呼ばれなかった。9秒98を更新っできるように、これからもがんばりたいです。また呼んでもらえればうれしい」(桐生)
最後は選手たちがファンと交流し、福井の夢のような夜が幕を閉じた。
実は、福井国体が決まった後、木原先生は「日本インカレを呼びたい」と学連の関係者に何度もうかがいを立てた。「福井の人たちに9秒台を見せたいんです」と。もちろん、その時日本人で9秒台を持つ選手はいない。「新幹線も空港も近くにない」「どうして福井で?」。そんな声を押し切り、開催にこぎつけた経緯がある。
国体に向けてスタジアムも改修。追い風参考ばかりだった競技場が、大型スクリーンを作ったことで〝絶妙な風〟になった。
もし国体がなければ、インカレを呼べなければ……9秒台も、そしてこの「伝説の夜」も誕生しなかった。
地方陸協の小規模なスタジアムでも、情熱があればこれだけのことができる。この奇跡のような1日は、今後の陸上界にとって大きな転機となるかもしれない。
「だから言ったでしょ? ここは〝モンスタースタジアム〟だって。少しは地域に恩返しができた。この動きが全国でできてほしい。まずはやってみないと。本当にやってよかった。記録が出るような雰囲気を創るのも我々の義務。東京五輪のあと、多くの企業はスポーツから引いてしまう。でも、アスリートは残ります。アスリートが生きていける時代を作らなくては。来年以降もやっていく予定です」
最終的に、クラウドファンディングで集まった金額は785万円。支援者数は企業も含め347件(個人326人)にのぼった。
「陸上ファンも、みんな何かしたいんですよ。日本記録を担う1人なんです。福井でできたんだから、どこでもできます」
木原先生は関係者と「こりゃいかん。大赤字だ」と笑い飛ばした。そう言いながら、誰もが充実感でいっぱいの表情を浮かべていた。
文/向永拓史

競技会をやりたい
2017年9月9日、福井県営陸上競技場。この時、この競技場にまだ愛称はついていなかった。 日本インカレ男子100m決勝。東洋大4年だった桐生祥秀が日本人で初めて10秒の壁を突破する、9秒98をマークした。桐生は雄たけびを上げ、スタンドで仲間に声援を送る学生たち、そして観客たちの視線と歓声が一極に集中。スタジアムは興奮のるつぼと化した。のちに、「9.98スタジアム」と親しまれるようになる。 「陸上でこんなにも盛り上がることができるのか」 福井陸協専務理事を務める木原靖之先生(敦賀高)はじめ、関係者もまた、同じように感激に浸った。その翌年には、国体を福井で開催。福井県スポーツ協会所属の110mハードルの金井大旺(現・ミズノ)、800mの村島匠という2人が大会新で制すなど、盛況で幕を閉じた。 インカレ、そして国体を終え、木原先生たちの間で「また何かやりたい」という声が上がった。18年11月に金井、村島らと話をしている中で、2人から「福井のために何かできることはありませんか?」と提案があった。 「実は競技会をやりたいんだ」 それならナイターがいい。僕らも出るし、選手を集めます。欧州の雰囲気でやりましょう。次々と2人からアイデアが出た。 夢はどんどん膨らんだ。 福井陸協の会長を務める八木誠一郎氏に話を持ちかけたのが、12月。八木会長は福井国体をもって任期満了の予定だった。 「私が会長を続ける理由は何かありますか?」 「実はこんな競技会を考えています。どこもやっていない大会です。実行委員長として残っていただきたい」 「それはいつできそうなのですか?」 「準備をしていますが、2020年には」 「それでは遅いですね。来年やりましょう」 大企業のフクビ化学工業の代表取締役社長を務めるほどの人物。やると決めたからには速度を持って――。すでの次年度の競技会カレンダー決定も大詰めとなっていたが、木原先生たちはすぐに準備に取り掛かった。 [caption id="attachment_4082" align="aligncenter" width="300"]
クラウドファンディングで資金集め
しかし、地方陸協にとって、それほどの大会をするには資金が足りない。翌年2月に福井新聞社の関係者と立ち話をしている中で、「クラウドファンディング」という案が持ち上がった。 「やるとは言ったものの、本当に資金が集まるのか、選手が来てくれるのか。不安なままスタートしました」(木原先生) 日程は関係各所に相談し、どのあたりなら選手たちが参加できるかを考慮した末、8月18日に設定された。 クラウドファンディングをするに当たり、「出場する選手が決まらないと資金を集めるのは厳しい」と担当者から話があった。そこで、金井をはじめ選手に持ちかけ、最初に「おもしろい。選手を出しますよ」と応えてくれたのがミズノだった。 飯塚翔太や市川華菜らの参戦が早々に決まり、福井勢と縁深い順大の関係者も参加を表明。クラウドファンディングを始めてわずか12日で、当初の目標金額だった150万を達成した。 トラックの近くに座席を設け、走幅跳も間近で観ることができる。選手との交流もあり、サッカーや野球のようにナイターで2時間ほど密な時間を過ごす。さらに、そのチケット代(支援金)は選手へダイレクトに渡り〝応援〟している気分も味わえる。SNSを中心に、にわかに「どんな大会になるのか」という興味が広がった。 すると、次第に選手や指導者たちから「出たい」「この種目はできませんか」という問い合わせがくるようになったという。走幅跳では、「冗談だろう」と思うほどの選手たちが参加を表明した。 ただ、この競技会をする上で、絶対に欠かせない選手がいた。 桐生祥秀だ。 [caption id="attachment_4075" align="aligncenter" width="300"]
日本記録ラッシュ
迎えた当日。マスコミも大挙訪れ、メインスタンドはいっぱい。フィールド内のクラウドファンディングリターン席には陸上ファンや家族連れが集まる。 午前中からは、小学生や地元の女子フットサルチームの選手たちが100mを体験。大会でもない、記録会でもない、「陸上競技」を楽しむだけの雰囲気があった。 [caption id="attachment_4079" align="aligncenter" width="300"]



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