2024.04.18
基準は常に「自分の力を出し切れたか」
――実業団17年間で、一番の財産は?
今井 人とのつながり、支え、縁ですね。トヨタ自動車九州の応援団は、選手に近い存在でいてくれます。結果を出している、出していないに関係なく、すごく応援してくれる。それは、会社の風土でもあります。僕には地元・福島県や大学でつながった方々、そして九州にも応援してくれる方がいる。その方々がまたつながって応援してくれていることに幸せを感じます。もう一つ、僕の競技人生は、失敗のほうが絶対多かったと思います。ですが、失敗はむしろ楽しみの一つでもありました。失敗したからダメではなく、できないことがわかったと学んでいましたし、できるようにするのにはどうしたらいいかを考えるのが楽しかった。その経験も財産です。
――今井さんが思う「失敗」レースとは?
今井 結果はタイムや順位などの数字で表れますが、僕の基準は「自分の力が出し切れたか」でした。100%の力を出し切って負けたなら、失敗ではないし、仕方がないですが、40%ぐらいしか出せずに負けたら、自分の未熟さや調整不足と捉えていました。でも、それをどう受け止めて、60や70、100%にするにはどう練習するのか、生活していくかを考え、試すのが本当に楽しかったです。
――18回のマラソンで一番「自分の力が出し切れたな」と感じたレースは?
今井 18回……。川内君(優輝、あいおいニッセイ同和損保)の6分の1ぐらいですね(笑)。力を出し切れたのは、セカンドベストを出した2022年の大阪マラソン。最後は落ち込みましたが、1年間積み上げてきたものは出し切れたな、という満足度は高かったです。引退前に、その感覚を味わえたのは相当大きな経験だったと思います。指導者になる上で、それを知っているか、知らないかでは伝え方や指導の幅がまるで違うと思います。
あのレースは最後だと思って臨みました。6位に入ってMGCの出場権を獲得したのでチャンスがつながりましたが、獲得しなかったら……という思いはありました。そもそもMGCを狙うというより、競技者としてどう出し切るかに集中していたので、35kmまですごくあっという間で、本当にマラソンが楽しいと思えたレースでした。実は大阪の1年前ぐらいに森下監督には「結果が出なかったら今季限りで……」と話しました。それを伝えた瞬間から、心も身体も軽くなり、自分の中で集中力が増しました。その1年間で自分の身体とどう向き合うべきか今まで以上にわかったし、先を見過ぎず、今を見ながら積み重ねていく大切さに気付けました。とても充実した1年間でした。
――充実期で言えば、やはり北京世界選手権の代表権を獲得した15年頃でしょうか?
今井 そうですね。30歳前後は身体もしっかりできて、質の高い練習も継続できた時期でした。だからトラックも駅伝もマラソンも全部が好調でした。レースで言えば、2013年のニューヨークシティ・マラソン(2時間10分45秒/6位)と2014年の別府大分毎日マラソン(2時間9分30秒)はタイム的にまだまだでしたが、充実感がありました。翌年の東京マラソンで、生涯ベスト(当時日本歴代6位)の2時間7分39秒(7位)を出して、北京世界選手権の日本代表に選んでいただきましたが、あのレースの35km以降の落ち込みは力不足で悔しさしかありません。練習でも2時間6分台の手応えはあったし、35kmまでその走りができていたのに、最後にガクッと落ちて。満足できないレースにしてしまいました。
――結果的に、大会1ヵ月前に髄膜炎を発症し、欠場を余儀なくされました。
今井 どこまでも持っていないと思いました。なんでここで? と、受け入れ難かったですね。時が経った今なら、差し引きができないことが原因だったと思います。東京マラソンの疲労をしっかり抜けないまま、トラックシーズンに入り、トラックでも結果を残さなくてはという力みが強くて、体調を壊しても思い切って休めませんでした。また、弱みを見せたくなかったので、頑張りすぎる自分がいて…。本当に未熟でした。
リオ五輪の選考レースがあったので、退院してからすぐ練習を再開しましたが、うまく目標を立てられず、集中力が低いまま走り続けていました。そのため、2016年の東京から2018年のびわ湖毎日までマラソンを4本走っていますが、その間の練習はこなすだけになっていましたし、目標が定まっていないので、試合でも集中力が途切れて、きついところで我慢できなかった。監督はそれを察知して、「半年間休もうか」と提案してくれました。僕もある程度の練習はできているのに結果が出ないのは、心や意識の問題と薄々感じていたので、ここで休まなかったら次はないと思い、思い切って休むことにしました。
――その半年間はどのように過ごされましたか?
今井 疲労感を抜きつつ、最低限の体力維持のため、月曜日にロング走、金曜日にインターバル系を練習し、土日は完全休養日で気分転換に充てる生活を3ヵ月間送りました。同時に、「陸上を始めた頃、どういう思いで走っていたか振り返る時期にしよう」と、地元に帰ったり、中学生の時からお世話になっている治療院や宿に泊まって合宿させてもらったりしました。また、動き作りでお世話になっている北海道・旭川の病院を訪ね、身体の使い方を再度見直しました。いろいろな方と話すことでヒントがもらえ、自問自答する時間もたくさん取れました。自分がしたいことにチャレンジしたり、何のために走っているかに向き合えたりしたとてもいい時間でした。
――その時間があったから、もう一度頑張ろうと思えたんですね。
今井 そうですね。走るのが楽しいと思えたのは大きかったです。2019年の東京マラソンはMGCの出場権を絶対取るという強い気持ちで走れましたし、その後も、この時に感じた思い(感覚)を引き出しながら、技術と組み合わせていきました。この時に休んでいなかったら、もっと早く引退していたかもしれないですね。
――指導者としての道が始まりましたが、それとは別に今一番やりたいことがあれば教えてください。
今井 家族はこの12、13年間、僕中心の生活でした。子供たちに「遊びに行こう」と言われても「試合前や練習だからダメ」と断っていたので、思い切り遊んであげたいです。何よりも妻が一番頑張ってくれていたのでゆっくりさせてあげたいです。あとは、野球ですね。野球はずっと好きなままなので、中学の同級生に連絡して、「野球やろうぜ」って誘っています(笑)。
◎いまい・まさと
1984年4月2日生まれ。1984年4月2日生まれ。福島・小高中→原町高→順大→トヨタ自動車九州。高校から本格的に陸上に取り組み、3年のインターハイ5000mは日本人2番手の5位を占めた。順大では箱根駅伝で大活躍。2年時に山上りの5区で驚異的な区間新記録を打ち立てて11人抜きを達成すると、3、4年時も5区で区間賞を獲得し、「山の神」と称された。2007年にトヨタ自動車九州入社後はマラソンを中心に取り組み、2015年東京で当時日本歴代6位の2時間7分39秒をマークし、同年の北京世界選手権代表に選出された。2019年、23年MGCも出場している。
構成/田端慶子
新たな“勉強”に邁進する日々
――3月13日に順大男子長距離コーチ就任を発表しました。4月から本格的に指導者としての生活がスタートしていますが、心境としてはいかがでしょうか? 今井 母校ということで大学生活を思い出しますが、競技や競技外の生活を含めて自分でスケジューリングしていたところから、学生中心へと視点を切り替えているところ。まだまだ勉強させてもらっている段階ですが、早く慣れていきたいです。 ――長門俊介監督は大学時代の同期です。 今井 長門監督とは、大学の時から競技のこと、将来のことをすごく話してきましたし、いつか一緒に仕事ができればいいね、とも話したことがありました。まさか本当に実現するとは思いませんでしたが、長門監督と思いは共有できているので、彼が思い切ってやれるようにサポートしていきたいと思っています。同じくコーチになった田中秀幸と一緒に、長門監督が作っていくものに2人で塩、コショウのようなアクセントがつけられればいいですね。 ――理想とする指導者像は? 今井 選手がチャレンジする環境を作り、自分もチャレンジし続けることを大切にしたいです。そのためには勉強も必要。困難に遭遇することも多いと思いますが、それを一緒に乗り越えていけるように選手の隣で伴走していきたいです。 ――伴走するなら、これからも走り続けないといけないですね。 今井 そういう伴走ではないです(笑)。やめた僕と一緒に走るレベルだと、世界なんて目指せませんから、どんどん置いて行ってほしいです。僕は自転車や車で伴走します(笑)。 学生たちは1月3日の悔しさ(箱根駅伝で総合17位となり、4年ぶりにシード権喪失)から、長門監督を中心に立て直しを図っています。3月末の順大競技会でも各選手が良い雰囲気の走りを見せていました。出場した選手はきついところで粘れていましたし、レースのなかった選手は全員で応援する姿がありました。学生たちからの「やってやろう」というエネルギーを肌で感じています。 ――現役生活を終えて、改めてどんな心境でしょうか。 今井 あっという間でした。特にトヨタ自動車九州に在籍した17年間は1年間のサイクルが同じということもあり、早く感じました。 ――引退を決断したのはいつでしたか? 今井 一番のきっかけは昨年10月のMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)の結果を受けてですね。実は2022年11月下旬に内転筋と股関節周りを痛めて、翌年3月まで治らなかった頃から意識していました。10月にMGCを控える中で、そのブランクに大きな不安を感じていました。練習を積み重ねる中で9月上旬には戦える感覚がつかめましたが、良い動きの練習が1、2本続けてできた直後に、「あれ、なんか痛い」と異変を感じました。MGCまで痛みが回復せず、戦える状態でスタートラインに立てなかった時、決断しました。 ――引退を決意した瞬間は、どんな思いが湧き起こりましたか? 今井 気持ちが抜けた訳ではなかったですが、マラソンの火は消えた、勝負としてのマラソンは終わったなと思いました。これまで出場した17回のマラソンは途中棄権や失格なく走り切っていたので、最後まで走り切ることは自分自身のこだわりでもありました。ですが、MGCの30kmで(制限時間の)関門に引っかかった瞬間に「あ、来てしまったな」と。たとえ完走していても、このタイムではもう勝負できないと思ったでしょうし、勝負に臨める状態ではないと感じた時点で、引退を選んでいたと思います。 ――周りの方には相談されましたか? 今井 家族に話しました。妻は競技者でなくなることを想像できないと言っていましたし、子どもたちからももっと走ってほしいと言われました。でも、1月ぐらいに、再度、「やっぱりこのまま競技を続けるのは厳しい」と妻と話しました。森下広一監督には最後まで明言しないままでしたが、お互い感じているものは同じだったと思います。1%でも世界の可能性がある限りはあきらめるつもりはありませんでしたが、そんなに甘いものではないと監督はもちろん、自分自身でもわかっていました。「五輪で戦いたい」の重みを胸に挑戦
――ここまで長く第一線で活躍できたことについて、どのような思いでしょうか。 今井 長く選手を続けたい気持ちはありましたが、結果次第では実業団3年目ぐらいで(会社から)引導を渡されることもあり得ると思っていました。なので、「早く何かをつかまないと」と思っていました。実際、3年目に意識を変えたことで身体も変わり、成果も出始めました。その頃から実業団でも戦えると感じるようになりました。そこからは、1年1年が勝負だと思って頑張ってきました。僕の目標は、マラソンで五輪や世界選手権に出ること。「五輪で戦いたい」と宣言してトヨタ自動車九州に入ったので、長く続けることより、目標を成し遂げることに集中して取り組んできました。 ――3年目に「戦っていける」と感じた理由は? 今井 それまでは高校や大学で練習してきたことにこだわりすぎていましたが、3年目ぐらいに森下監督の考えをもっと汲み取ったり、近づこうと吸収するように意識を変えたりしました。そして、監督の考え方を受けて、自分がどう動くべきか考えるようになったら、徐々に心と身体がうまく噛み合い出しました。レース前半をハイペースで入り、中盤はしっかりペースを保ち、最後にもう一段階上げてスパートをかけられるのが実業団選手。入社当初はそれができない自分にもどかしさを感じましたし、誤魔化すため、過去に固執していました。 ――トヨタ自動車九州に入社したのは、1992年バルセロナ五輪のマラソンで銀メダルを取った森下監督の存在が大きいと語っていらっしゃいました。 今井 もちろん大きいですね。日本で一番、世界のマラソンに近い人が森下監督と尊敬していたので、どうしても超えたかったですし、学びたかった。森下監督に指導者として五輪を見てもらいたい、それを自分が実現したいとずっと思っていました。誰かに先に達成されるのは嫌でした。 ――森下監督は、どんな存在でしたか? 今井 僕の性格をよくわかっているので、押したり引いたりしながら声をかけてくれました。途中からかなり任せてもらえましたが、好き勝手にさせる訳ではなく、自主性を尊重しながらディスカッションも大切にしてくれました。情熱がある人なので、厳しい言葉をかけられたこともあります。2012年頃、マラソンを2、3本走ってロンドン五輪を目指そうかというとき、練習がうまくできなかったことがありました。その時の僕の取り組みを見て「五輪を舐めるんじゃないよ」と。その言葉で、自分が目指そうとしている五輪の重みがわかったし、これではいけないと気づきました。それは森下監督が発した言葉だから響きましたし、その後もずっと心に留めていました。 [caption id="attachment_133348" align="alignnone" width="800"] 五輪を目指して走り続けた日々にピリオドを打った2024年2月の日本選手権クロカン[/caption] ――入社した当時(07年)はチーム内に、後に北京五輪(08年)マラソン金メダリストになるサムエル・ワンジルさん(故人)、ヘルシンキ世界選手権(05年)10000m代表の三津谷祐さんなど、世界を見据えた選手が何人もいましたよね。 今井 そうですね。トヨタ自動車九州陸上競技部が発足して5年目ぐらいのとき、大学生だった僕は合宿に参加させてもらいました。はっきり言って成熟していないチームで、賑やかな部分もありましたが、その分パワーもすごくて勢いを感じました。一人ひとりから「俺たちはこんなもんじゃないんだ」という思いが伝わってきて何より“やってやるぞ”感が刺激的でしたね。僕は東北人の気質で、性格的に少しずつ上がっていきたいタイプなので、勢いで一気に行く熱さが自分には足りないと思っていました。その点、九州には独特の熱さや勢いがある。それを自分が手に入れた時、どう変化するのか体感したいと思ったのも、トヨタ自動車九州を選んだ理由です。基準は常に「自分の力を出し切れたか」
――実業団17年間で、一番の財産は? 今井 人とのつながり、支え、縁ですね。トヨタ自動車九州の応援団は、選手に近い存在でいてくれます。結果を出している、出していないに関係なく、すごく応援してくれる。それは、会社の風土でもあります。僕には地元・福島県や大学でつながった方々、そして九州にも応援してくれる方がいる。その方々がまたつながって応援してくれていることに幸せを感じます。もう一つ、僕の競技人生は、失敗のほうが絶対多かったと思います。ですが、失敗はむしろ楽しみの一つでもありました。失敗したからダメではなく、できないことがわかったと学んでいましたし、できるようにするのにはどうしたらいいかを考えるのが楽しかった。その経験も財産です。 ――今井さんが思う「失敗」レースとは? 今井 結果はタイムや順位などの数字で表れますが、僕の基準は「自分の力が出し切れたか」でした。100%の力を出し切って負けたなら、失敗ではないし、仕方がないですが、40%ぐらいしか出せずに負けたら、自分の未熟さや調整不足と捉えていました。でも、それをどう受け止めて、60や70、100%にするにはどう練習するのか、生活していくかを考え、試すのが本当に楽しかったです。 ――18回のマラソンで一番「自分の力が出し切れたな」と感じたレースは? 今井 18回……。川内君(優輝、あいおいニッセイ同和損保)の6分の1ぐらいですね(笑)。力を出し切れたのは、セカンドベストを出した2022年の大阪マラソン。最後は落ち込みましたが、1年間積み上げてきたものは出し切れたな、という満足度は高かったです。引退前に、その感覚を味わえたのは相当大きな経験だったと思います。指導者になる上で、それを知っているか、知らないかでは伝え方や指導の幅がまるで違うと思います。 あのレースは最後だと思って臨みました。6位に入ってMGCの出場権を獲得したのでチャンスがつながりましたが、獲得しなかったら……という思いはありました。そもそもMGCを狙うというより、競技者としてどう出し切るかに集中していたので、35kmまですごくあっという間で、本当にマラソンが楽しいと思えたレースでした。実は大阪の1年前ぐらいに森下監督には「結果が出なかったら今季限りで……」と話しました。それを伝えた瞬間から、心も身体も軽くなり、自分の中で集中力が増しました。その1年間で自分の身体とどう向き合うべきか今まで以上にわかったし、先を見過ぎず、今を見ながら積み重ねていく大切さに気付けました。とても充実した1年間でした。 [caption id="attachment_133353" align="alignnone" width="800"] 最も力を出し切ったレースに挙げた2022年2月の大阪マラソン[/caption] ――充実期で言えば、やはり北京世界選手権の代表権を獲得した15年頃でしょうか? 今井 そうですね。30歳前後は身体もしっかりできて、質の高い練習も継続できた時期でした。だからトラックも駅伝もマラソンも全部が好調でした。レースで言えば、2013年のニューヨークシティ・マラソン(2時間10分45秒/6位)と2014年の別府大分毎日マラソン(2時間9分30秒)はタイム的にまだまだでしたが、充実感がありました。翌年の東京マラソンで、生涯ベスト(当時日本歴代6位)の2時間7分39秒(7位)を出して、北京世界選手権の日本代表に選んでいただきましたが、あのレースの35km以降の落ち込みは力不足で悔しさしかありません。練習でも2時間6分台の手応えはあったし、35kmまでその走りができていたのに、最後にガクッと落ちて。満足できないレースにしてしまいました。 ――結果的に、大会1ヵ月前に髄膜炎を発症し、欠場を余儀なくされました。 今井 どこまでも持っていないと思いました。なんでここで? と、受け入れ難かったですね。時が経った今なら、差し引きができないことが原因だったと思います。東京マラソンの疲労をしっかり抜けないまま、トラックシーズンに入り、トラックでも結果を残さなくてはという力みが強くて、体調を壊しても思い切って休めませんでした。また、弱みを見せたくなかったので、頑張りすぎる自分がいて…。本当に未熟でした。 リオ五輪の選考レースがあったので、退院してからすぐ練習を再開しましたが、うまく目標を立てられず、集中力が低いまま走り続けていました。そのため、2016年の東京から2018年のびわ湖毎日までマラソンを4本走っていますが、その間の練習はこなすだけになっていましたし、目標が定まっていないので、試合でも集中力が途切れて、きついところで我慢できなかった。監督はそれを察知して、「半年間休もうか」と提案してくれました。僕もある程度の練習はできているのに結果が出ないのは、心や意識の問題と薄々感じていたので、ここで休まなかったら次はないと思い、思い切って休むことにしました。 ――その半年間はどのように過ごされましたか? 今井 疲労感を抜きつつ、最低限の体力維持のため、月曜日にロング走、金曜日にインターバル系を練習し、土日は完全休養日で気分転換に充てる生活を3ヵ月間送りました。同時に、「陸上を始めた頃、どういう思いで走っていたか振り返る時期にしよう」と、地元に帰ったり、中学生の時からお世話になっている治療院や宿に泊まって合宿させてもらったりしました。また、動き作りでお世話になっている北海道・旭川の病院を訪ね、身体の使い方を再度見直しました。いろいろな方と話すことでヒントがもらえ、自問自答する時間もたくさん取れました。自分がしたいことにチャレンジしたり、何のために走っているかに向き合えたりしたとてもいい時間でした。 ――その時間があったから、もう一度頑張ろうと思えたんですね。 今井 そうですね。走るのが楽しいと思えたのは大きかったです。2019年の東京マラソンはMGCの出場権を絶対取るという強い気持ちで走れましたし、その後も、この時に感じた思い(感覚)を引き出しながら、技術と組み合わせていきました。この時に休んでいなかったら、もっと早く引退していたかもしれないですね。 ――指導者としての道が始まりましたが、それとは別に今一番やりたいことがあれば教えてください。 今井 家族はこの12、13年間、僕中心の生活でした。子供たちに「遊びに行こう」と言われても「試合前や練習だからダメ」と断っていたので、思い切り遊んであげたいです。何よりも妻が一番頑張ってくれていたのでゆっくりさせてあげたいです。あとは、野球ですね。野球はずっと好きなままなので、中学の同級生に連絡して、「野球やろうぜ」って誘っています(笑)。 ◎いまい・まさと 1984年4月2日生まれ。1984年4月2日生まれ。福島・小高中→原町高→順大→トヨタ自動車九州。高校から本格的に陸上に取り組み、3年のインターハイ5000mは日本人2番手の5位を占めた。順大では箱根駅伝で大活躍。2年時に山上りの5区で驚異的な区間新記録を打ち立てて11人抜きを達成すると、3、4年時も5区で区間賞を獲得し、「山の神」と称された。2007年にトヨタ自動車九州入社後はマラソンを中心に取り組み、2015年東京で当時日本歴代6位の2時間7分39秒をマークし、同年の北京世界選手権代表に選出された。2019年、23年MGCも出場している。 構成/田端慶子
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