2023.12.26
第100回大会を迎える箱根駅伝を前に、特別な思いを持つ著名人の方々にインタビューした。今回は俳優として活躍する和田正人さん。実は日大時代に箱根駅伝を2度走っている和田さん。卒業後は実業団でも競技を続け、チームの廃部をきっかけに俳優を目指したという。現役時代や選手へのメッセージを聞いた。
幼い頃からテレビで見ていた箱根駅伝
――和田さんが箱根駅伝を見始めたのはいつ頃ですか?
和田 正月になると親戚が集まって、おじいちゃんが見ていたのを、なんとなく見ていました。知ってはいましたが、小学生なんでそこまでおもしろいとは思っていなかったです。
やっぱり中学で陸上を少し始めてからですね。僕はソフトボール部に入っていて、結構、真剣にやっていました。掛け持ちで作られた駅伝に1年生の時から入っていたんです。
駅伝のほうでも県内で活躍するようになって、少しずつ興味を持った感じですね。当時は早稲田の渡辺康幸さんとか、山梨学院のオツオリ選手とか。神奈川大も強かったですよね、ただ、その時もあこがれの舞台というのは一ミリもなかったですね。こういう世界があるんだなって。だって、本当に高知の山間部で、全国大会という発想すらなかったです。
――高校から本格的に陸上の道へ進まれたそうですね。
和田 高知工業の野中(三徳)先生が目をつけてくれて誘ってくれました。「高知農業を倒して全国高校駅伝に行くぞ。お前にかかっている」みたいな、熱いコト言われましたね。今でも飲みにいくくらい良くしてくださっています。そこで初めて全国高校駅伝に出たい、という目標が漠然とできました。
2年生の時に39年ぶりに都大路に出ました。でも、ボロボロで全然活躍できなかったです(1区36位)。全国ってこんなにすごいんだって。歯が立ちませんでした。今も残る1区のギタヒ(仙台育英高・宮城)の高校記録が出た時なんですよ。
――3年の時にも出場(4区36位)されています。当時から大学でも競技を続けたいと考えていたのですか。
和田 そこまで考えていなかったです。僕は今でもそうなのですが、性格上、あまり先の目標を決めるより、目の前のことを一生懸命にやっていたら道が開けていくようなタイプ。全国高校駅伝に出ることだけを考えて練習していました。高校生ながら、親や先生から期待されているのはわかっていたので、行けるところまで行きたいな、とは思っていました。
当時、日大のコーチをされていた西(弘美)さんと野中先生は、日大時代のチームメイト。そこで、野中先生が「伸びるから見てやってくれ」と話してくれたみたいで、高知まで練習を見に来てくださいました。
全国高校駅伝でも活躍できず、インターハイにも行っていなかったので、「あ、大学に行けるんだ」と思いました。そこで初めて箱根駅伝を意識したんです。
――日大に進学されて、チームの雰囲気と気持ちとしては?
和田 当時の日大は上位争いをしていました。全国から精鋭が集まってくるようなチームでしたね。入学した時の持ち記録も同期の中で一番遅かった。Aチームにもなかなか入れなかったですね。
でも、負けず嫌いなので、とにかく勝ちたい一心で、コツコツまじめに頑張っていたら、自然とタイムが上がっていきました。冬には自己記録が同期で一番になったんです。
チームとして練習していく中で、3大駅伝(出雲、全日本、箱根)が大きな目標で、その中でも箱根駅伝は一番大きいものなんだなって、だんだんと理解していきましたね。
――絶対に箱根駅伝を走るんだ! みたいな感情ではなかったわけですね。
和田 小さい頃から見ていたらそうなると思いますが、僕は違いました。ただ、卒業する時に、地元の友達から「和田は箱根駅伝を目指して日大に行くんだよな。箱根駅伝頑張れよ」って言われるわけです。やっぱりみんなが知っている。じゃあ、箱根駅伝に出られるように頑張りたいなって。
――1年生からエントリーに入られたんですよね。
和田 そうですね。箱根に出られるところまで来て、ようやく実感してきました。目の前に箱根駅伝が来たんですよね。そうしたら頑張り過ぎちゃった。12月の館山合宿でケガをしてしまいました。
3区を走る予定で下見にも行きました。それで出られなかったので、逃した獲物の大きさを実感しました。そこから、本格的に絶対に箱根駅伝に出たいっていう気持ちが湧き上がってきたんです。
幼い頃からテレビで見ていた箱根駅伝
――和田さんが箱根駅伝を見始めたのはいつ頃ですか? 和田 正月になると親戚が集まって、おじいちゃんが見ていたのを、なんとなく見ていました。知ってはいましたが、小学生なんでそこまでおもしろいとは思っていなかったです。 やっぱり中学で陸上を少し始めてからですね。僕はソフトボール部に入っていて、結構、真剣にやっていました。掛け持ちで作られた駅伝に1年生の時から入っていたんです。 駅伝のほうでも県内で活躍するようになって、少しずつ興味を持った感じですね。当時は早稲田の渡辺康幸さんとか、山梨学院のオツオリ選手とか。神奈川大も強かったですよね、ただ、その時もあこがれの舞台というのは一ミリもなかったですね。こういう世界があるんだなって。だって、本当に高知の山間部で、全国大会という発想すらなかったです。 ――高校から本格的に陸上の道へ進まれたそうですね。 和田 高知工業の野中(三徳)先生が目をつけてくれて誘ってくれました。「高知農業を倒して全国高校駅伝に行くぞ。お前にかかっている」みたいな、熱いコト言われましたね。今でも飲みにいくくらい良くしてくださっています。そこで初めて全国高校駅伝に出たい、という目標が漠然とできました。 2年生の時に39年ぶりに都大路に出ました。でも、ボロボロで全然活躍できなかったです(1区36位)。全国ってこんなにすごいんだって。歯が立ちませんでした。今も残る1区のギタヒ(仙台育英高・宮城)の高校記録が出た時なんですよ。 ――3年の時にも出場(4区36位)されています。当時から大学でも競技を続けたいと考えていたのですか。 和田 そこまで考えていなかったです。僕は今でもそうなのですが、性格上、あまり先の目標を決めるより、目の前のことを一生懸命にやっていたら道が開けていくようなタイプ。全国高校駅伝に出ることだけを考えて練習していました。高校生ながら、親や先生から期待されているのはわかっていたので、行けるところまで行きたいな、とは思っていました。 当時、日大のコーチをされていた西(弘美)さんと野中先生は、日大時代のチームメイト。そこで、野中先生が「伸びるから見てやってくれ」と話してくれたみたいで、高知まで練習を見に来てくださいました。 全国高校駅伝でも活躍できず、インターハイにも行っていなかったので、「あ、大学に行けるんだ」と思いました。そこで初めて箱根駅伝を意識したんです。 ――日大に進学されて、チームの雰囲気と気持ちとしては? 和田 当時の日大は上位争いをしていました。全国から精鋭が集まってくるようなチームでしたね。入学した時の持ち記録も同期の中で一番遅かった。Aチームにもなかなか入れなかったですね。 でも、負けず嫌いなので、とにかく勝ちたい一心で、コツコツまじめに頑張っていたら、自然とタイムが上がっていきました。冬には自己記録が同期で一番になったんです。 チームとして練習していく中で、3大駅伝(出雲、全日本、箱根)が大きな目標で、その中でも箱根駅伝は一番大きいものなんだなって、だんだんと理解していきましたね。 ――絶対に箱根駅伝を走るんだ! みたいな感情ではなかったわけですね。 和田 小さい頃から見ていたらそうなると思いますが、僕は違いました。ただ、卒業する時に、地元の友達から「和田は箱根駅伝を目指して日大に行くんだよな。箱根駅伝頑張れよ」って言われるわけです。やっぱりみんなが知っている。じゃあ、箱根駅伝に出られるように頑張りたいなって。 ――1年生からエントリーに入られたんですよね。 和田 そうですね。箱根に出られるところまで来て、ようやく実感してきました。目の前に箱根駅伝が来たんですよね。そうしたら頑張り過ぎちゃった。12月の館山合宿でケガをしてしまいました。 3区を走る予定で下見にも行きました。それで出られなかったので、逃した獲物の大きさを実感しました。そこから、本格的に絶対に箱根駅伝に出たいっていう気持ちが湧き上がってきたんです。2年時の箱根デビューは緊張しっぱなし
――2年生でついに箱根駅伝デビューです。 和田 2年目にはチームの中心にはなれていたので、走るものだという位置づけでした。どの区間を走りたいというのはなかったのですが、9区を走ると聞いて、「そんなに長いところを走るんだ」と思ったのは覚えています。 やっぱり、復路って単独走になりがちですよね。単独で走るには実力はもちろん、経験値も大事。しかも、直前の全日本大学駅伝では単独走でミスをしているんです。それもあって単独走で行けるように練習していたので、取り返すチャンスだなって。 ――当日のことを覚えていますか。 和田 もう、完全に舞い上がっていました。中継所にはすごい選手がいるわけですよ。5位で来たのでふわふわしていましたね。想像以上に緊張しましたし、楽しむ余裕は全然なかった。自分のことに集中しないといけないのに…。中畑清さんが来ていたのを覚えていて、でかいなぁって(笑)。関係車両の多さとか、人の多さとか。一度、中継所に行ってほしいですね! 初めて全国高校駅伝に出た時と同じ感覚です。すごいところに放り出された。苦い思い出ってよく覚えているものですよね。良い走りはできなかったですが、ブレーキもせず。最低限の走りができて、先輩に安心してタスキをつなげました。 [caption id="attachment_124522" align="alignnone" width="800"] 日大2年目に箱根駅伝9区へ[/caption] ――上級生になってチームでの立ち位置も変わっていきますよね。 和田 10000mのタイムでも割とチーム内で上位でした。ただ、1学年下に清水兄弟(将也、智也)、2学年下に藤井周一と、高校から全国区で活躍する後輩がいて、すごく刺激になりました。藤井は部屋子(同部屋の後輩)だったんです。ライバルであり、仲が良かった。彼らが僕を引き上げてくれました。10000mでも28分台をマークできました。 出雲、全日本と出場できて、箱根で頑張るぞっていう時に…。少しケガをして本調子じゃなかったところで、気持ちがぶっ壊れてしまったんです。 ――3年目が出場できなかった理由ですね。 和田 直前の練習でも息苦しくなって全然走れなかったんです。でも、中心選手として頑張らないといけないっていうプレッシャーがかかった。設定タイムでは走れてもめっちゃ苦しい。ブレーキしたらどうしよう、シード落ちしたら迷惑をかけちゃう。そういったことばかり考えました。走れないわけじゃないけど、ベストではないっていうのはわかるんです。 スタッフ陣に託そうと思って、西さんに状態を伝えに行きました。不安もありつつ、心のどこかで「走ってくれ」と言われるんだろうなって期待していた自分もいたんです。そうしたら、「よし、替わろう」って即答されたんです。その瞬間、膝から崩れ落ちて大号泣したんです。 その頃になると、箱根駅伝が大きな目標でした。家族も応援してくれていて、前日から高知を出発して現地に向かってくれているんですよ。来ている道中に「ごめん、明日出られなくなった」って伝えましたね。すごく申し訳なかった。 ――そうした挫折の経験から学んだことは? 和田 まず、ケガをした後にしっかり休まないといけなかった。結局、動悸がしていたのは検査をしても異常なしで、心因性だったんです。プレッシャーですよね。そこで初めて、メンタルの大切さを感じました。メンタルを整えれば身体はうごくし、一定のラインを越えると身体に不調が出る。春先にはそのコントロールがうまくなりました。 何より、1年目と同じで、出られなかったことで4年目の箱根に懸ける思いはすごく強くなりました。3年目の挫折から最後の箱根路へ
――4年時はトラックでも活躍されます。 和田 ランナー・和田正人が完成に向かっていきました。インカレでも入賞しましたし、満足のいくシーズンを過ごせました。でも、今度は夏合宿前にシンスプリント発症と疲労骨折で3ヵ月走れなかったんです…。 この頃は腐っていましたね。全日本には出られない。そうなると、箱根駅伝1本しかない。3ヵ月休んで、10月頃から練習を再開しました。11月にチーム練習に合流。ただ、走り込みができていなかったので、そこは不安もありました。 ――最後の箱根駅伝も9区でした。 和田 調子は上がっていたのですがケガ明けで少し不安もあったので、1区を走りたいですって言いました。単独走よりヨーイドンからついて行ければ、区間3位くらいでいけるという自信があったんです。9区になって、あの苦い記憶が蘇りましたが、今なら大丈夫、と気合が入りました。 4年目はめちゃくちゃ楽しかったです。1年前の経験からメンタルをコントロールする術が身について、良い状態を作るためには「最後は楽しもう」という気持ちが大事なんだって。これは今も、大きな仕事でプレッシャーがある時にも生かされています。 シード権争いくらいで来たのですが、前後にいる大学には負けへんぞって。走り出したら相手はまったく意識せず、自分の走りに集中できましたね。 ――1時間10分52秒の区間5位と力走ですね。 和田 中盤を越えたところでは区間3位くらいの通過だったんです。そこまではイメージ通り走れていて、1時間9分台で行けるだろうなって。そうしたらラスト5kmで…。両手がしびれてきて、急に身体が動かなくなったんです。 完全にエネルギー不足ですよね。やっぱり練習量が最後のところで足りなかった。どれだけ動かそうと思っても、脚がゆっくりしか動かない。ラスト5kmは15分20秒くらいでいければ目標タイムくらいに届くところを、16分40秒かかりました。なんとか1km3分05秒くらいでキープして。 最後の橋の手前で、あまりにも身体が動かなくて「あー!!!」って叫びました。観客の人も驚いていたと思います(笑)。あれだけが悔やまれます。 ――当時も沿道はすごい人だったと思います。 和田 横浜駅前はすごかったですよ。何層にも連なっていました。2年の時は余裕がなくて周囲が見えていなかったですし、4年の時は集中していて。それでも、沿道のすごさは覚えています。ただ、友達が見に来てくれて、大きい声で応援してくれたらしいのですが、まったく気づかなかったですね。 ただ、不思議なもので家族の声だけはわかるんです。これは選手の家族“あるある”だと思うのですが、ちゃんと声が届くように、すこし人混みから外れたところを探して応援するんですよ(笑)。 [caption id="attachment_124523" align="alignnone" width="800"] 日大4年時の和田正人さん[/caption] ――卒業後も競技を続けるのは決まっていたんですよね。 和田 そうですね。2月くらいから実業団の合宿に参加していました。その後、学生最後として出場したハーフマラソンでは1時間2分で走れたんです。もう爆走ですよ。区間賞を取っている選手たちがいたのですが、軒並み先着しました。 ――少し話は変わりますが、NECが廃部になった後に俳優になられます。その経緯をうかがえますか。 和田 実業団ではずっとケガばかりで、なかなか試合に出られませんでした。そうした時期にいろいろ人生について考えるようになりました。スポーツはうまくいっても30歳少しで引退。先が長い人生で、プレイヤーとしてずっと輝かせる仕事はないかなって。やればやるほど、積み重なって、広がっていく。そこで俳優さんって良い仕事だなって思ったんです。 そうしたところで廃部が決まって、「これはチャンスだな」って背中を押された気がしたんです。翌日の面談でチームメイトが次の所属について相談するなか、「俳優になります!」って言いました。 明確な目標が見つかったら、僕の中ではそこに向かって努力していく。そうしたら実現するという成功体験を、陸上を通して経験しているんです。だから、「俳優になれる」と信じ切っていました。その後は年齢をごまかして事務所に…。そのへんの流れは、インターネットでいろいろ調べると出てくると思います(笑)。和田さんが伝えたい箱根駅伝の魅力とメッセージ
――改めて、和田さんとって箱根駅伝の魅力とは。 和田 月並みですが、『青春』でしたね。青春に必要な要素って、汗と涙。本当に汗をかいいたし、本当に涙を流した。そこに友情もある。時間も限られている。青春のすべての条件を満たしているんです。 心の底から喜んだし、悔しがった。あんなに興奮した。芸能生活20年で、もちろんお仕事にも一生懸命向き合っています。それでも、あれを超える感情って未だにありません。きっとこれからもないと思います。 ――人生がもう一度あったら、どう関わりたいですか。 和田 次は1区を走ってみたいですね。今の僕なら「前半区間に置いたほうが良さを生かせます!」って監督に言い切っていたと思います(笑)、。 指導者にもなってみたいですね。野中先生は僕を後継者に、という思いを持ってくれていたと思うんです。 ――最後に100回記念大会を走る選手たちへメッセージをお願いします。 和田 100回の歴史を積み重ねてきたわけですから、それにふさわしい大会になってくれたらいいなと思います。仕事柄、大会を一つの大会として捉えた時に、おもしろい駅伝を見たい。そのためには、勝ち負けだけではなくて、チームごとに奇跡的なドラマ、人間ドラマが起きる。それこそ学生スポーツのおもしろさだと思います。 そのドラマが200kmの中にちりばめられて、最高のフィナーレを迎える。100回大会を走れるのは230人だけ。全力で楽しんでください。社会に出た時に自信になるし、アドバンテージになります。「一生自慢できるぜ」って伝えたいです。 [caption id="attachment_124520" align="alignnone" width="800"] 箱根駅伝での経験や魅力を語ってくれた和田正人さん[/caption] ◎わだ・まさと/1979年8月25日生まれ。高知県出身。全国高校駅伝2度出場。日大では箱根駅伝に2、4年時に9区を走った。NECの廃部が決まったことで俳優を目指し、04年に芸能界入り。ドラマ、映画、舞台で活躍している。2018年から箱根駅伝のNHKラジオ放送でゲスト解説を務める。12月30日(土)夜6時から日本テレビ系で放送の「箱根駅伝 伝説のシーン表と裏 3時間SP」にも出演する。 文/向永拓史
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