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2023.12.25

「悔しさをエネルギーに変えて成長」【前編】 箱根駅伝〝三代目・山の神〟が振り返る快進撃の背景/神野大地(青学大ОB)
「悔しさをエネルギーに変えて成長」【前編】  箱根駅伝〝三代目・山の神〟が振り返る快進撃の背景/神野大地(青学大ОB)

箱根駅伝での快進撃に至るまでの過程を振り返った神野大地

大正9年に創設され、昭和、平成、令和と4つの時代を駆け抜け、いよいよ第100回の歴史的な節目を迎える箱根駅伝。学生たちが繰り広げる2日間の継走は、多くの人々に勇気や感動を与え、「正月の国民的行事」と呼ばれるほど大きな注目を集めている。選手たちが並々ならぬ情熱を傾ける箱根駅伝の魅力はどんなところにあるのか。青学大時代に大活躍した〝三代目・山の神〟神野大地に、快進撃の背景を振り返ってもらった。(前編)

まだ無名選手だった高2の夏、原監督との出会い

――青学大時代に箱根駅伝で大活躍した神野選手ですが、青学大へ進学したきっかけは?
神野 原(晋)監督と出会ったことですね。高2の夏、チームの合宿で菅平(長野)に訪れていた時、たまたま青学も菅平で合宿をしていて、クロスカントリーコースで走っている僕の姿を見た原監督が「君の名前は? 5000mはどれぐらい?」と声をかけてきました。当時の僕は5000mが14分49秒ぐらいの無名選手で、原監督から「青学に入れる条件はまだ満たしていないけど、君は必ず伸びるから、ぜひ青学に入ってほしい」と言われたのです。その数ヵ月後に14分33秒のタイムを出したことで原監督が今度は正式にスカウトに来てくれました。その頃、他大学からもいくつかお話がありましたが、無名だった僕の走りだけを見て「こいつは伸びる」と思ってくれた原監督の下でやりたいという気持ちがあり、高2の冬の前に青学へ進学することを決めました。

無名時代にスカウトしてくれた青学大・原晋監督との出会いが神野の競技人生に大きな影響を与えてくれた

――青学大に入学後、部のムードは想像していた通りでしたか?
神野 いい意味での規律はありましたが、1年生だけがとても苦労するような規則や習慣はなく、とてもいいムードでした。僕の出身高である中京大中京(愛知)は陸上の名門で、短距離やハードルは強いのですが、僕の時代の長距離ブロックは県で2~3番手と特別強かったわけではなく、それほど厳しくありませんでした。そのため、大学で急に厳しくなったら僕は耐えられなかったでしょうけど、青学は変な上下関係もなかったので、「ああ、いい大学に入ったな」と思いましたね。

――神野選手が入学した年は、数ヵ月前の箱根駅伝で青学大初の区間賞をエース区間の2区で獲得した出岐(雄大)選手が主将でしたが、先輩方の接し方はいかがでしたか?
神野 出岐さんや大谷(遼太郎)さんらが4年生でしたが、先輩方は皆さん優しかったです。寮では最初に出岐さんと同部屋になり、青学だけでなく「大学駅伝界のエース」と呼べる方と一緒に生活させていただき、ほどほどの緊張感はありましたが、出岐さんの生活スタイルや練習に向かう姿勢などを近くで学べました。

――出岐さんからどんなことを学びました?
神野 何事にもまじめで、部屋ではよく本を読んでいて、夜は10時~11時には寝るようなハメをはずさないタイプでした。陸上って、生活が一番大事だと僕は思っていて、規律正しく生活することが競技のレベルアップにつながることを出岐さんから学びました。また、出岐さんは走る量も多く、各自ジョグの日でも僕の方が必ず先に寮へ帰っていましたし、4年生でエースの方が地道にたくさん走る姿を見て、こうやって練習を積み重ねることが大事だということも学ばせてもらいました。

大学1年目は良い思い出が一つもなかった

――神野選手は5000mで14分13秒(2011年高校ランキング30位)というタイムを持って青学大に入りましたが、チームの練習にはすぐに対応できましたか?
神野 タイムはそれほどすごいわけではなく、青学の同期の中でも久保田(和真、熊本・九州学院高卒)、小椋(裕介、北海道・札幌山の手高卒、現ヤクルト)に次ぐ3番目。都道府県対抗駅伝は愛知県の5区(8.5km/区間4位)を走らせていただき、先頭に立って久保田(熊本県代表)と競る経験もさせてもらいましたが、インターハイは5000mで予選落ち、全国高校駅伝にも出ていないですから特別強い選手ではなく、同世代のトップクラスには全然及ばない実力でした。

――入学後の競技生活はいかがでしたか?
神野 1年目はいい思い出が一つもなく、ケガで走っていない時期もあり、箱根駅伝はエントリーメンバーにすら入れず、大学のレベルの高さを感じ、先輩方の偉大さというか、すごく大きく見えました。自分はそこには到底及ばないと思える1年目でしたね。

――その一方、同期の久保田選手、小椋選手は1年目から箱根駅伝に出場していました。
神野 あの2人との実力差は入学していた時から感じていましたが、僕自身、1年目に苦労したからこそ「自分はもっとがんばらなければ」と思いましたし、1年目の試練がその後につながったような気がします。

大正9年に創設され、昭和、平成、令和と4つの時代を駆け抜け、いよいよ第100回の歴史的な節目を迎える箱根駅伝。学生たちが繰り広げる2日間の継走は、多くの人々に勇気や感動を与え、「正月の国民的行事」と呼ばれるほど大きな注目を集めている。選手たちが並々ならぬ情熱を傾ける箱根駅伝の魅力はどんなところにあるのか。青学大時代に大活躍した〝三代目・山の神〟神野大地に、快進撃の背景を振り返ってもらった。(前編)

まだ無名選手だった高2の夏、原監督との出会い

――青学大時代に箱根駅伝で大活躍した神野選手ですが、青学大へ進学したきっかけは? 神野 原(晋)監督と出会ったことですね。高2の夏、チームの合宿で菅平(長野)に訪れていた時、たまたま青学も菅平で合宿をしていて、クロスカントリーコースで走っている僕の姿を見た原監督が「君の名前は? 5000mはどれぐらい?」と声をかけてきました。当時の僕は5000mが14分49秒ぐらいの無名選手で、原監督から「青学に入れる条件はまだ満たしていないけど、君は必ず伸びるから、ぜひ青学に入ってほしい」と言われたのです。その数ヵ月後に14分33秒のタイムを出したことで原監督が今度は正式にスカウトに来てくれました。その頃、他大学からもいくつかお話がありましたが、無名だった僕の走りだけを見て「こいつは伸びる」と思ってくれた原監督の下でやりたいという気持ちがあり、高2の冬の前に青学へ進学することを決めました。 [caption id="attachment_123901" align="alignnone" width="800"] 無名時代にスカウトしてくれた青学大・原晋監督との出会いが神野の競技人生に大きな影響を与えてくれた[/caption] ――青学大に入学後、部のムードは想像していた通りでしたか? 神野 いい意味での規律はありましたが、1年生だけがとても苦労するような規則や習慣はなく、とてもいいムードでした。僕の出身高である中京大中京(愛知)は陸上の名門で、短距離やハードルは強いのですが、僕の時代の長距離ブロックは県で2~3番手と特別強かったわけではなく、それほど厳しくありませんでした。そのため、大学で急に厳しくなったら僕は耐えられなかったでしょうけど、青学は変な上下関係もなかったので、「ああ、いい大学に入ったな」と思いましたね。 ――神野選手が入学した年は、数ヵ月前の箱根駅伝で青学大初の区間賞をエース区間の2区で獲得した出岐(雄大)選手が主将でしたが、先輩方の接し方はいかがでしたか? 神野 出岐さんや大谷(遼太郎)さんらが4年生でしたが、先輩方は皆さん優しかったです。寮では最初に出岐さんと同部屋になり、青学だけでなく「大学駅伝界のエース」と呼べる方と一緒に生活させていただき、ほどほどの緊張感はありましたが、出岐さんの生活スタイルや練習に向かう姿勢などを近くで学べました。 ――出岐さんからどんなことを学びました? 神野 何事にもまじめで、部屋ではよく本を読んでいて、夜は10時~11時には寝るようなハメをはずさないタイプでした。陸上って、生活が一番大事だと僕は思っていて、規律正しく生活することが競技のレベルアップにつながることを出岐さんから学びました。また、出岐さんは走る量も多く、各自ジョグの日でも僕の方が必ず先に寮へ帰っていましたし、4年生でエースの方が地道にたくさん走る姿を見て、こうやって練習を積み重ねることが大事だということも学ばせてもらいました。

大学1年目は良い思い出が一つもなかった

――神野選手は5000mで14分13秒(2011年高校ランキング30位)というタイムを持って青学大に入りましたが、チームの練習にはすぐに対応できましたか? 神野 タイムはそれほどすごいわけではなく、青学の同期の中でも久保田(和真、熊本・九州学院高卒)、小椋(裕介、北海道・札幌山の手高卒、現ヤクルト)に次ぐ3番目。都道府県対抗駅伝は愛知県の5区(8.5km/区間4位)を走らせていただき、先頭に立って久保田(熊本県代表)と競る経験もさせてもらいましたが、インターハイは5000mで予選落ち、全国高校駅伝にも出ていないですから特別強い選手ではなく、同世代のトップクラスには全然及ばない実力でした。 ――入学後の競技生活はいかがでしたか? 神野 1年目はいい思い出が一つもなく、ケガで走っていない時期もあり、箱根駅伝はエントリーメンバーにすら入れず、大学のレベルの高さを感じ、先輩方の偉大さというか、すごく大きく見えました。自分はそこには到底及ばないと思える1年目でしたね。 ――その一方、同期の久保田選手、小椋選手は1年目から箱根駅伝に出場していました。 神野 あの2人との実力差は入学していた時から感じていましたが、僕自身、1年目に苦労したからこそ「自分はもっとがんばらなければ」と思いましたし、1年目の試練がその後につながったような気がします。

2年目に飛躍を遂げたきっかけとは?

――そして、2年目で一気に力をつけたのですが、飛躍した要因やきっかけは? 神野 大学の陸上部は部員数も多く、監督の中で目が留まる選手になるには結構大変です。2年生になったばかりの4月末に日体大記録会(日体大長距離競技会)があり、青学の場合、5月の関東インカレで10000mを狙う選手が10000mに出場し、それ以外は5000mに出ることになっていました。僕は当然、関東インカレレベルの選手ではなく、他のみんなと5000mに出ることになっていましたが、1つ上の先輩で、翌年度、箱根駅伝で初優勝する時のキャプテンになる藤川さん(拓也、現・中国電力)に何気なく「本当は10000mに出たいのですが、今の実力ではそんなこと言う権利もないですよね~」と話したら、「神野は5000mより10000mの方が得意なんだから、監督に『10000mに出たい』って言ってこいよ」と後押ししてくれたんです。そこで、勇気を出して原監督の部屋に行き、「今度の日体大記録会は5000mではなくて10000mに出させてほしいのですが」とお願いしたら、監督は「はい、どうぞ」と二つ返事。おそらく、僕が10000mで結果を出すことを想像すらしておらず、出たいならば勝手にどうぞ、という程度の気持ちだったと思うのですが・・・・・。 ――その日体大記録会の10000mの結果は? 神野 自己ベスト(30分16秒)を大幅に上回る29分01秒を出せたんです。そのタイムは当時の青学ではトップ5ぐらいに入るもので、他に関東インカレで10000mの代表を狙う選手たちよりも良かったので、関東インカレの代表にもなれて、そこが僕にとって大きく変われたところだったなと感じます。 ――自身の気持ちや、周囲の見方にどんな変化がありましたか? 神野 1回チームの代表になると、原監督には「こいつは外せないポジションだな」って思ってもらえて、負担がかかる選手選考の争いに加わることもなく、部内でも重要人物として見られる。あの日体大記録会でそのまま5000mに出ていたら、おそらくチーム内で15番手ぐらいの結果でインカレの代表にもなれず、監督の目に留まることもなかったでしょうから、「10000mに出たい」と言いに行って本当に良かったと思っています。 ――そして迎えた関東インカレでどんな走りができましたか? 神野 関東インカレの10000mでは決していいタイムではなかったのですが、あの時は青学が久しぶりに1部に上がれた年で、ケニア人留学生も日本人も強い選手がたくさんいる中、大学で初代表だった僕が果敢に攻め、5000mを14分20秒ぐらいで通過した日本人トップ集団4人の中になぜか僕もいたのです。最終的に後半の5000mは15分かかり、29分14秒で14位という成績でしたが、原監督にはすごく評価していただきました。また、そのレースを見ていたコニカミノルタの方からスカウトの声が掛かり、卒業後に入社するきっかけになったので、あの関東インカレの10000mは僕の競技人生のターニングポイントでした。 注:コニカミノルタには2年間所属し、その後プロランナーになった。 [caption id="attachment_123902" align="alignnone" width="800"] 大学2年目の春に急成長を遂げ、5月の関東インカレ1部10000mで健闘した神野(No.4)。この大会での奮起により、チーム内で確固たる地位を築くことができたという[/caption]

悔しさをエネルギーに変えて成長

――2年目に飛躍できたのは、どんな要因がありましたか? 神野 悔しさを知って、それをエネルギーに変えられたところも良かったと思います。ケガをしていた時にはフィジカルトレーニングに熱量を注ぎ、「走り始めたら絶対みんなに勝つんだ!」という気持ちでトレーニングをがんばっていましたので・・・・。 ――1年目の箱根駅伝はエントリーメンバーにも入っていませんでしたが、どのような状況だったのでしょうか? 神野 12月頭に疲労骨折を起こしてしまい、箱根駅伝のエントリー直前でメンバーから脱落しました。ケガがなければ16人のエントリーメンバーに入り、8番手から10番手ぐらいの選手として出走のチャンスもあったので、メンバー落ちしてから2~3週間は気持ちが腐っていましたね。箱根駅伝本番では1区の付き添いとして走る選手と同じホテルに泊まり、朝練も参加していたのですが、僕は脚が痛くて一緒に走れなかったので、原監督とスタート地点まで散歩することになりました。その時、原監督から「神野、この景色を忘れるな。来年はお前がエースになれ!」と言われたんです。それは誰もが監督から言われているようなことだったかもしれませんが、あの時の僕には結構響きましたね。 [caption id="attachment_123903" align="alignnone" width="800"] 大学1年の箱根駅伝はケガでエントリーメンバーにすら入れず、神野(右)は1区を務めた3年生・遠藤正人(中央)の付き添いをした[/caption] ――付き添いとはいえ、箱根駅伝に直接関わって、どんな気持ちになりました。 神野 改めてすごい大会だと実感しましたし、「来年は絶対に出場するんだ!」という気持ちになり、箱根が終わってからは心を入れ替えて取り組みました。ケガが治った後はしっかりトレーニングを積めて、その流れで、先ほども話した4月の日体大記録会の10000mで一つの成果を挙げ、それが関東インカレにつながり、チームの中心選手になっていくことができました。1年目の箱根駅伝はいい思い出ではなかったのですが、あれがなかったらその後の成長もなかったのではと感じています。

2年目の箱根駅伝では2区に抜てき

――2年生の箱根駅伝ではいきなりエース区間の2区に抜てきされましたが、その前の出雲駅伝と全日本大学駅伝でも主要区間を務めており、着実に力がついていたようですね。 神野 関東インカレ以降は原監督も僕のことを気にかけてくれていましたし、自分のレベルが上がると練習が楽にこなせて、試合でもいいパフォーマンスを発揮できるようになり、肝心なところで外さなくなりました。逆に練習が目一杯だとその疲れも取れず、試合でいいパフォーマンスを出すことは難しくなります。出雲のアンカーはかなり強い選手が揃っていたのですが、区間4位でチームの順位も上げられました。全日本は2区だったのですが、当時の2区は現在より距離が長く、エースが集まる比重が高かった中、そこでも区間6位で走ることができ、〝外さない〟という点も評価され、箱根でも必然的に「2区だぞ」と原監督からずっと言われていて、そのまま2区に挑むことになりました。 ――その箱根駅伝の2区でも区間6位にまとめ、チームを6位から5位へ押し上げました。 神野 箱根もすごいいい結果というわけではなく、2年生の三大駅伝は「高い景色を経験させてもらった」という感じでした。 ――しかし、箱根駅伝のデビューがいきなり2区で、プレッシャーなどなかったのでしょうか? 神野 「僕が2区を走って大丈夫かな?」と思いもありましたが、いい練習ができていて、「チームの中では一番強い」という自信もあったので、僕以外の選手が2区に行くのは考えられない状況でした。結果的に区間6位で、監督から言われていた目標タイムもクリアでき、自分の中では満足のいく1回目の箱根駅伝でした。 ――箱根駅伝に初出場した選手から、「沿道の大観衆にも圧倒され、緊張しすぎて真っ白になってしまった」という話をよく聞きますが、神野選手の場合はいかがでしたか。 神野 「沿道からの声援がすごくて、耳がキーンとする」という話を聞いていたのですが、本当にその通りで、「これが箱根駅伝なんだな」と実感しました。 [caption id="attachment_123904" align="alignnone" width="800"] 箱根駅伝デビューとなった2年時、いきなりエース区間の2区を務めた神野。沿道からの大声援は想像以上で、箱根駅伝のすごさを改めて実感した[/caption] ――イメージ通りの舞台だったのか、よりすごさを感じたのか、どちらでしたか? 神野 よりすごさを感じた方ですね。2区のラスト1kmの『戸塚の壁』と言われる上り坂の沿道は、それこそ六重ぐらいの人だかりでしたし、背後の運営管理車からポイントごとに声を掛けてもらえるのも他の駅伝ではないことで新鮮でした。それ以外にも、大会後、地元の友だちや高校時代の同級生などいろんな人から連絡をもらい、箱根駅伝がもたらす影響力や偉大さを改めて感じましたね。 ――2区のレースでは、秒差で走り出した早大の高田選手(康暉、現・住友電工)が区間賞を獲得しました。一緒に走った感想はいかがでしたか。 神野 高田は同学年ですが、高校時代から活躍している、僕にとっては〝雲の上の存在〟で、タスキをもらったのは同じタイミングだったのですが、僕でさえ最初の1kmを2分48秒ぐらいで突っ込んでいたのですが、その段階で早くも5秒ぐらい離されてしまい、追いかけるというより「世界が違う」と感じて走っていたので、だからこそ区間6位にまとめられた。あそこで高田について行って自分の力以上のパフォーマンスを出そうとしたら、おそらく空回りしていたでしょうし、僕としてはあの時のベストの走りはできていたと思っています。

「1度でも箱根に出ること」が目標だった

――箱根駅伝に憧れを抱いて以降、走りたい区間などの目標や夢がありましたか? 神野 箱根に憧れを持つようになったのは、やはり原監督と出会ったことがきっかけですが、僕が入る当時の青学はちょうどシード権を狙えるチームだったので、言い方は悪いかもしれませんが「青学だったら、がんばったら4年間で1回は箱根駅伝に出られるかな」という思いで入学を決めました。 ――では、特に何区を走ってみたいといった目標もなかった? 神野 そんな目標もなくて、ましてや2区や山上りの5区を走るなど1ミリも考えていませんでした。 ――その2区でしっかり走り切れたわけですから、自身の成長を実感できました? 神野 そうですね。自分の役目を果たせたという思いはあったので、その経験をプラスにできましたし、2年生の箱根駅伝(チームは総合5位)を終えた後に、1つ上の先輩たちが「次は優勝を目指そう」というチームの目標を掲げた時に、自分もそれを目指していきたいという思いで3年目をスタートしました。 [caption id="attachment_123905" align="alignnone" width="800"] 大学3年で初めて5区に挑んだ時の心境を振り返った神野[/caption]

5区を走るきっかけとは?

――そして、3年目の箱根駅伝では5区で大活躍してチームを初優勝に導きましたが、山上りの5区を走ることになった経緯は? 神野 最初の箱根駅伝で2区をしっかり走れたことで、原監督から1年間、「次も2区だよ」と言われていた中、11月中旬、5区候補だった1年後輩の一色(恭志、現・NTT西日本)の上りの練習の際、監督から「2区も最後に戸塚の上り坂があるんだから、神野も上りの練習に行くぞ」と言われて一緒に走ったのです。一緒といっても、秒差で僕が先にスタートし、一色が僕を抜くはずの練習だったのですが、僕がめちゃくちゃ速すぎて、どんどん差が開いていったんです。ゴールした瞬間、原監督が興奮した口ぶりで「神野、お前は2区じゃなくて5区だ!」と言ってきたんです。僕としては「それほどいい走りをした感じがなかったのに、そんないいタイムが出たのなら、レース当日ならもっと行ける。区間賞は狙えるな」という手応えがありましたね。 ――当時の5区は今より2km以上長い最長区間で、タフな上りがあるのはもちろん、強風や寒さも影響して大ブレーキなどのアクシデントは珍しくなく、そこでの走りの良し悪しが大きな差につながる非常に重要な区間でしたが、プレッシャーなどありませんでしたか? 神野 5区を走ることが決まってからは、自分の中で「〝山の神〟になりたい」という気持ちもどんどん芽生えてきていましたし、チームが優勝を目指している中、「僕が2区よりも5区を走ることでその目標に近づくなら全力で行こう」という前向きな気持ちになれましたし、日に日に「5区で最高のパフォーマンスを発揮して優勝に貢献する」というイメージを膨らませていました。

笑ってしまうぐらい絶好調だった

――では、特に気負いもなく、いいかたちで挑めましたか? 神野 そうですね。めちゃくちゃ調子が良くて、当日のウォーミングアップ中も、調子が良すぎて笑ってしまうぐらいでした。スタート前の監督との電話では「最初の1kmは3分05秒で入りなさい。勝負は山に入ってからだから、箱根湯本(3km付近)までは抑えて行け」という指示を受けたのですが、いざ走り出すと、最初の1kmは設定より15秒も速い2分50秒でした。監督からは「速すぎるから(ペースを)落とせ」と言われ、僕自身も「さすがに2分50秒は速いな」と思ったのですが、ペースを落としたはずの次の1kmも2分52秒と速かった。上りが少し始まっていたにもかかわらずその状況だったので、次に原監督に声をかけられた時は「今日の神野はめちゃくちゃ調子がいいから、タイムを気にせず、そのまま行け!」と言ってもらったことで、自分でも変に制御することなく、「監督がいいと言ってくれたし、このまま行こう」と決めました。あの時、監督から「〝落とせ〟と言ってるだろ!」などと言われていたら僕の走りも固まっていい動きができなかったと思うので、監督が僕の調子を感じてくれて背中を押してくれたことも結果につながったのかなと思っています。 ――あの時は2位から先頭に躍り出たわけですが、レース内容をよく覚えていますか? 神野 鮮明に覚えていますね。先頭の駒澤とのタイム差も45秒とちょうど良く、僕自身、調子が良かったとはいえ、めちゃくちゃハイペースで突っ込んでいたので、大平台の手前の9kmぐらいでちょっときつくなり、「監督に最初に言われたとおり、やっぱり落としておけば良かったな」という思いがよぎった途端、先頭が結構近づいているのが見えたんです。箱根の山はカーブが多くて前のチームは見えにくいのですが、チラッと前が見えたことで急に元気が湧いてきて、きつかったのですが、「とりあえず、前に追いつくまでがんばってみよう」と思うようになりました。 ――実際に追いついた段階で、どんなことを考えていましたか? 神野 僕の心拍数はかなり上がっていましたから「これは行きすぎたかな」と自分の中で心配になって、駒澤の選手の後ろについていったん呼吸を整えたんです。すると、本当によ~いドンの時のような(楽な)状態ぐらいに戻すことができました。あの時は並走したり後ろについたりして400~500m走ったのですが、そのうちペースが違いすぎて(相手と)歩幅も合わなくなり、「だったら、ここで後ろにいるよりも、もう行っちゃえ!」と腹を決め、呼吸もだいぶ楽になっていたので、もう一度イチからスタートできたような状況で残りの距離に向かうことができました。仮に、あの時、5位ぐらいでタスキをもらっていたら、4位に追いついていったん休んでも、まだ3位や2位を追わなければならのはかなりきついじゃないですか。それが、2位でもらえて、45秒差だったことが、僕を後押ししてくれた大きな要因だと思っています。 [caption id="attachment_123906" align="alignnone" width="800"] 5区初挑戦となった3年の大会で首位・駒大(馬場翔大、右)を逆転した神野。先頭をとらえてから一気に勝負をかけず、少し休んだことで信じられないほどフレッシュな状態になったという[/caption] ――駒大を突き放してからの気持ちは? 神野 かなり差は開いているとは思ったのですが、正直、何秒離れていたかよくわかっていなかったので、自分としては1秒でも早くゴールすることしか考えていませんでした。

実質的に〝柏原超え〟の区間新

――背後の運営管理車の原監督からはどんな声をかけられていましたか? 神野 ラスト4.5kmの国道1号線最高点(標高874m)付近で、柏原さん(竜二、東洋大/2012年)が保持していた区間記録より「何秒いいぞ!」とか、「〝山の神〟になれるぞ!」と声をかけていただいて、自分の中でもテンションが上がっていました。 ――往路優勝のフィニッシュテープを切った瞬間はどんな気持ちでした? 神野 「本当に、がんばってきて良かったな」という気持ちが一番ですね。 ――その年、5区と6区は函嶺洞門の閉鎖に伴うわずかなコース変更があり、迂回によって実質的に距離が約20m延びたわけですが、それまで柏原選手が保持していた5区の偉大な区間記録を24秒も上回る、すばらしい走りでした。 神野 最後の最後で原監督に「破れるぞ!」と言われるまで、まさかそこまで走れているとは思っておらず、自分の想像以上のタイムでした。正直、柏原さんの記録は超えられるなど思っていなかったので、そこを変に意識していなかったからこそ、超えることができたのかなと思っています。 ――あの時はどれぐらいのタイムを目指していました。 神野 78分半を目指していたのですが、それより2分以上良かったことになります。 ――「変に意識してなかったことが良かった」とおっしゃっているものの、あれだけのすごい走りができた要因はどんなところにあったのでしょうか? 神野 これは〝タラレバ〟でしかないですし、信用してもらえないかもしれないのですが、あの年は僕が2区を走っていたとしても区間賞を取れていただろうと思えるぐらい、平地でもかなり調子が良かったんです。エース区間の2区で区間賞を取れるぐらいのレベルだった中、僕の場合は身体的に上りの傾斜に合った走りができていた上、VO2MaX(最大酸素摂取量)も高かったりしたので、それらを総合して上りを速く走ることができたのだと思います。 注:卒業してから測ったVO2MaXの数値は「80」だったという。 [caption id="attachment_123907" align="alignnone" width="800"] 2015年の第91回箱根駅伝で青学大の初優勝に大きく貢献した神野。偉大な記録を打ち立てて最優秀選手賞の金栗杯も受賞した[/caption] (後編に続く) 現在、日本テレビ箱根駅伝サイトでは、サッポロビール特別企画として神野大地さんのインタビュー動画が公開中。黒ラベルが当たるキャンペーンも実施中です。 ぜひご覧ください⇒動画はコチラ

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