2022.08.30
山梨学大の上田誠仁顧問の月陸Online特別連載コラム。これまでの経験や感じたこと、想いなど、心のままに綴っていただきます!
第24回「忘れじのカナダ遠征~雄大なカナディアンロッキーを脳裏に浮かべて~」
8月の後半ともなると、ひぐらしのなく声が緑の木陰を縫うように届き、青さを深めた空がひときわ高く見えはじめる。
インターハイ・全中と酷暑の競技会が終了すれば、夏に鍛えたアスリートが再び秋の大会で自己の限界に挑む姿のように空に浮かぶ雲とシンクロする。
この季節の富士山は赤銅色の山肌が朝日に映えて赤く染まる一瞬がある。この瞬間を捉えた葛飾北斎の「凱風快晴」の如き、力強い富士山を甲府の自宅から朝練習に向かう午前5時頃に仰ぎ見ることができる。息を呑む一瞬が脳裏に刻まれる。
そういえば、脳裏に刻まれた雄大な自然の景色を少なからず見てきた中で、今日この時に思い出した景色はカナディアンロッキーを望む森と湖、そして悠久の時を刻む氷河とのコラボレーションである。
なぜか……。
今回の話は1989年まで遡る。箱根駅伝3回目の出場で7位となり、シード権を獲得した直後の某月某日――。
あの頃は東日本縦断駅伝、通称:青東(あおとう)駅伝が開催されていた。青森県庁前をスタートし八戸→盛岡→一関→仙台→郡山→宇都宮→東京読売新聞本社前ゴールの62区間856.3kmを24名の登録選手で走破する過酷なレースであった。
当時の山梨県は実業団選手や大学生ランナーも不在に等しく、常に最下位に喘いでいた。
それでも箱根駅伝を目指す学生ランナーにとっては格好の駅伝体験の場でもあったので、創部当初から積極的に参加させていただいた。県の代表として参加する意識は後に、箱根駅伝で母校のユニフォームに袖を通す意識づくりにも一役買ってくれていた。
実業団・大学・高校・社会人ランナーなど多様な所属の選手の胸を借りたり覇を競い合ったりで、実り多きレースでもあった。
また各県を代表する長距離指導者との情報交換や懇親を深める良い機会でもあった。チームの強化策としては同じ時期に行われるようになった全日本大学駅伝にも全力投入しなければならず、そのためのチーム全体の底上げと、連戦に耐えうるスタミナとスピードの両輪を数段パワ―アップすることが課題でもあった。
そのことも含め、チームにやりがいとやる気を引き起こす“夢”が必要ではないかと、以前ケニア人留学生オツオリ選手の回顧録をこのコラムで書いたように、顧問の秋山勉(東農大で箱根駅伝4回出場)と毎晩のように長距離マラソン談義、取り分け選手育成とチーム作りの話題で時を経つのを忘れるほど話し込んだ。
秋山顧問が「箱根駅伝やインカレに出場できない選手たちにも、モチベーションの上がる大会を経験させてやらなければチームの底上げは図れない、がんばって同じようにトレーニングに励む彼らにも夢のある場所で走らせてやりたい!」という話から始まった。
飲むほどに話のスケールが膨れ上がり、「カナダのロッキー山脈を横切る壮大なスケールの駅伝があるらしい。そこで選手を走らせてやれば、きっと走る喜びを再認識してくれるはずだ」との話に行き着いた。
飲んで夢を語るだけではなく、それを実現させるための行動に移すのが慣わしとなっていたので、翌朝にはさっそく調べ始めた。
・主催者は「Chasquis Running Club」というボランティア組織で、麻薬撲滅や脳腫瘍財団に資金提供をするための大会趣旨がある。
・カナディアンエアラインが後援している。
・1980年から開催されている。
・コースはジャスパーからバンフまでの17区間258.7km。
・参加チーム数は自然保護の観点から120チームに限定。
・とにかく24時間以内で完走すること。
・襷の代わりに蛍光ペンライトをバトンとし夜間は発光させて走る。
・夜間はリフレクターベスト着用。
などがわかった。
1人平均17kmだが、ロッキー山脈の東の尾根伝いに走るコースは、当然アップダウンはきついだろう……などと想像しつつ、観光パンフレットなど開いてみた。そのコースそのものがカナディアンロッキーの雄大な景色と至るところにある美しい湖や大氷原を仰ぎ見ることができる景観に圧倒された。
(パンフレットでも感動の景色なので、実際そこで走った選手の感動の度合いを表現するには言葉では表せない)
実際のレースの写真
実際に行くとなると、旅行ではなく遠征試合なので、大会に出場する意義と選手選考をしっかりと伝えなくてはならない。
・5月までの記録会等での結果を優先的に選考する(18名)。
・箱根駅伝を走った選手10名は選ばない。
・日本インカレ出場者はそちらに専念(当時は6月開催)。
・留学生を擁するチームであるので自らも海外での経験を通して学ぶことが目的。
との発表をした。
さて、ここからである。
国際線飛行機の予約にはパスポートの申請をしなければならず、時間の関係で選手選考以前に全員パスポートの申請をさせた。
せっかくカナダまで行ってレースだけで帰ってくるのでは、実りも半ばで帰国するようなものなので、どこかで(費用を抑えて)合宿ができないかということになった。
バンクーバーに広大な敷地面積を誇るU B C(University of British Columbia)の学生寮は自炊設備もあることを知り、そこをビジターとして借りる段取りを取り付けた。学生主体の遠征なので、宿泊はホテルではなく自炊可能なモーテルか学生寮とし、今後も継続的に遠征することを想定して、炊飯器やホットプレートなども遠征用品として準備した。
期間は5月30日~6月14日(ロッキー山脈駅伝6月3日~4日、UBCでの合宿5日~13日)。
食材は現地のスーパー等で調達し、グループ自炊を行った。不慣れな環境なので「失敗もまた楽し」の心持ちで協力し合い、助け合いで乗り切った。事前の準備段階で、当時信州の車山高原でホテル経営をしていた秋山夫妻が、自炊献立や食材の調達内容や量的なことを細かく指示書のように作成していただいていたので大変助かった。
食材の調達も自分たちで行う
肝心のレースは地元カルガリーチームの3連覇を阻止し、初優勝した。
これを機に長いお付き合いとなるUBCの長距離コーチ、Malick Jedrzejek氏から「近くのリッチモンドで記録会があるから参加してみないか」との誘いと、その記録会の翌日にあるハリージェローム国際記念大会に特別枠で2名の参加が可能との話を受けた。
結果は5000mで6名が自己記録を大幅更新。充実したカナダ遠征を終えることができた。
この年をきっかけにジャスパー・バンフロードリレーには大会が一旦中止される前年の1999年まで参加し、それ以降もトラックレース参加のため2005年までカナダ遠征を継続した。
選手たちは駅伝選手まで手が届かないまでも、まずはカナダ遠征のメンバーになり、カナディアンロッキーの大自然の中を走ってみたいという夢のある話が目標となり、チーム全体の機運を高めていったのだと思う。
このコラムを書き進めるうちに、ある選手の声を聞きたくなり電話をかけた。
平成3年卒業で、現在は石川県能美市役所に勤務する上戸雅彦君だ。
彼は大学4年時に第2回カナダ遠征メンバーに選ばれた1人だった。故障がちの日々が多い中でも真摯に競技に取り組み、常に前向きにチームを鼓舞する彼の存在は、チームの誰もが認めるところであった。
彼のカナダ遠征選出をみんなが後押ししているような気運を感じ、彼をカナダに連れて行ってやりたいと心から思える人材であった。
出発2週間前のある日の夜に彼が私のところに遠征辞退を申し入れに来た。かねてより故障で苦しんできた坐骨神経の痛みが強くなり、走りに支障が出るからとのことであった。チームメイトはもとよりコーチングスタッフにも「サポートに回ってもいいから一緒に行こう」と声をかけられ、その言葉に甘える自分がいてはチームのためにならないと気づいた彼の決心だったらしい。
結果、彼は大舞台と呼べるステージに一度も立たずに卒業して行ったわけだが、今は地元でジュニアクラブチームの指導や、最近では中学の部活動の学外指導員として陸上競技の指導にあたっているという。
そんな彼は、なんと新婚旅行にカナデイアンロッキーを巡る旅を選んだそうだ。カナダの地で自分が走ったかもしれないコースに佇んで感慨に耽っていたという。学生時代のさまざまな思いが蘇ったことだろう。
ふと振り向くと、新妻はその姿に涙を浮かべていたと聞いた。奥様も陸上経験者ということで彼の心象風景が心に届いたのかもしれない。きっと旅をしながらあれやこれやと学生時代を振り返り、話して聞かせてあげたからだろう。
ランナーとして名を刻むことは少なかったかもしれないが、私が指導したかけがえのない部員としての彼は、深く心に刻まれている。
だからこそ、このコラムを書き始めて彼に電話をかけて声が聞きたくなったのだ。熱くほろ苦い思い出も、その時のチームと共有できればこそ、これほど強く結ばれる絆はないと思う。
上田誠仁 Ueda Masahito/1959年生まれ、香川県出身。山梨学院大学スポーツ科学部スポーツ科学科教授。順天堂大学時代に3年連続で箱根駅伝の5区を担い、2年時と3年時に区間賞を獲得。2度の総合優勝に貢献した。卒業後は地元・香川県内の中学・高校教諭を歴任。中学教諭時代の1983年には日本選手権5000mで2位と好成績を収めている。85年に山梨学院大学の陸上競技部監督へ就任し、92年には創部7年、出場6回目にして箱根駅伝総合優勝を達成。以降、出雲駅伝5連覇、箱根総合優勝3回など輝かしい実績を誇るほか、中村祐二や尾方剛、大崎悟史、井上大仁など、のちにマラソンで世界へ羽ばたく選手を多数育成している。2022年4月より山梨学院大学陸上競技部顧問に就任。 |
第24回「忘れじのカナダ遠征~雄大なカナディアンロッキーを脳裏に浮かべて~」
8月の後半ともなると、ひぐらしのなく声が緑の木陰を縫うように届き、青さを深めた空がひときわ高く見えはじめる。 インターハイ・全中と酷暑の競技会が終了すれば、夏に鍛えたアスリートが再び秋の大会で自己の限界に挑む姿のように空に浮かぶ雲とシンクロする。 この季節の富士山は赤銅色の山肌が朝日に映えて赤く染まる一瞬がある。この瞬間を捉えた葛飾北斎の「凱風快晴」の如き、力強い富士山を甲府の自宅から朝練習に向かう午前5時頃に仰ぎ見ることができる。息を呑む一瞬が脳裏に刻まれる。 そういえば、脳裏に刻まれた雄大な自然の景色を少なからず見てきた中で、今日この時に思い出した景色はカナディアンロッキーを望む森と湖、そして悠久の時を刻む氷河とのコラボレーションである。 なぜか……。 今回の話は1989年まで遡る。箱根駅伝3回目の出場で7位となり、シード権を獲得した直後の某月某日――。 あの頃は東日本縦断駅伝、通称:青東(あおとう)駅伝が開催されていた。青森県庁前をスタートし八戸→盛岡→一関→仙台→郡山→宇都宮→東京読売新聞本社前ゴールの62区間856.3kmを24名の登録選手で走破する過酷なレースであった。 当時の山梨県は実業団選手や大学生ランナーも不在に等しく、常に最下位に喘いでいた。 それでも箱根駅伝を目指す学生ランナーにとっては格好の駅伝体験の場でもあったので、創部当初から積極的に参加させていただいた。県の代表として参加する意識は後に、箱根駅伝で母校のユニフォームに袖を通す意識づくりにも一役買ってくれていた。 実業団・大学・高校・社会人ランナーなど多様な所属の選手の胸を借りたり覇を競い合ったりで、実り多きレースでもあった。 また各県を代表する長距離指導者との情報交換や懇親を深める良い機会でもあった。チームの強化策としては同じ時期に行われるようになった全日本大学駅伝にも全力投入しなければならず、そのためのチーム全体の底上げと、連戦に耐えうるスタミナとスピードの両輪を数段パワ―アップすることが課題でもあった。 そのことも含め、チームにやりがいとやる気を引き起こす“夢”が必要ではないかと、以前ケニア人留学生オツオリ選手の回顧録をこのコラムで書いたように、顧問の秋山勉(東農大で箱根駅伝4回出場)と毎晩のように長距離マラソン談義、取り分け選手育成とチーム作りの話題で時を経つのを忘れるほど話し込んだ。 秋山顧問が「箱根駅伝やインカレに出場できない選手たちにも、モチベーションの上がる大会を経験させてやらなければチームの底上げは図れない、がんばって同じようにトレーニングに励む彼らにも夢のある場所で走らせてやりたい!」という話から始まった。 飲むほどに話のスケールが膨れ上がり、「カナダのロッキー山脈を横切る壮大なスケールの駅伝があるらしい。そこで選手を走らせてやれば、きっと走る喜びを再認識してくれるはずだ」との話に行き着いた。 飲んで夢を語るだけではなく、それを実現させるための行動に移すのが慣わしとなっていたので、翌朝にはさっそく調べ始めた。 ・主催者は「Chasquis Running Club」というボランティア組織で、麻薬撲滅や脳腫瘍財団に資金提供をするための大会趣旨がある。 ・カナディアンエアラインが後援している。 ・1980年から開催されている。 ・コースはジャスパーからバンフまでの17区間258.7km。 ・参加チーム数は自然保護の観点から120チームに限定。 ・とにかく24時間以内で完走すること。 ・襷の代わりに蛍光ペンライトをバトンとし夜間は発光させて走る。 ・夜間はリフレクターベスト着用。 などがわかった。 1人平均17kmだが、ロッキー山脈の東の尾根伝いに走るコースは、当然アップダウンはきついだろう……などと想像しつつ、観光パンフレットなど開いてみた。そのコースそのものがカナディアンロッキーの雄大な景色と至るところにある美しい湖や大氷原を仰ぎ見ることができる景観に圧倒された。 (パンフレットでも感動の景色なので、実際そこで走った選手の感動の度合いを表現するには言葉では表せない) 実際のレースの写真 実際に行くとなると、旅行ではなく遠征試合なので、大会に出場する意義と選手選考をしっかりと伝えなくてはならない。 ・5月までの記録会等での結果を優先的に選考する(18名)。 ・箱根駅伝を走った選手10名は選ばない。 ・日本インカレ出場者はそちらに専念(当時は6月開催)。 ・留学生を擁するチームであるので自らも海外での経験を通して学ぶことが目的。 との発表をした。 さて、ここからである。 国際線飛行機の予約にはパスポートの申請をしなければならず、時間の関係で選手選考以前に全員パスポートの申請をさせた。 せっかくカナダまで行ってレースだけで帰ってくるのでは、実りも半ばで帰国するようなものなので、どこかで(費用を抑えて)合宿ができないかということになった。 バンクーバーに広大な敷地面積を誇るU B C(University of British Columbia)の学生寮は自炊設備もあることを知り、そこをビジターとして借りる段取りを取り付けた。学生主体の遠征なので、宿泊はホテルではなく自炊可能なモーテルか学生寮とし、今後も継続的に遠征することを想定して、炊飯器やホットプレートなども遠征用品として準備した。 期間は5月30日~6月14日(ロッキー山脈駅伝6月3日~4日、UBCでの合宿5日~13日)。 食材は現地のスーパー等で調達し、グループ自炊を行った。不慣れな環境なので「失敗もまた楽し」の心持ちで協力し合い、助け合いで乗り切った。事前の準備段階で、当時信州の車山高原でホテル経営をしていた秋山夫妻が、自炊献立や食材の調達内容や量的なことを細かく指示書のように作成していただいていたので大変助かった。 食材の調達も自分たちで行う 肝心のレースは地元カルガリーチームの3連覇を阻止し、初優勝した。 これを機に長いお付き合いとなるUBCの長距離コーチ、Malick Jedrzejek氏から「近くのリッチモンドで記録会があるから参加してみないか」との誘いと、その記録会の翌日にあるハリージェローム国際記念大会に特別枠で2名の参加が可能との話を受けた。 結果は5000mで6名が自己記録を大幅更新。充実したカナダ遠征を終えることができた。 この年をきっかけにジャスパー・バンフロードリレーには大会が一旦中止される前年の1999年まで参加し、それ以降もトラックレース参加のため2005年までカナダ遠征を継続した。 選手たちは駅伝選手まで手が届かないまでも、まずはカナダ遠征のメンバーになり、カナディアンロッキーの大自然の中を走ってみたいという夢のある話が目標となり、チーム全体の機運を高めていったのだと思う。 このコラムを書き進めるうちに、ある選手の声を聞きたくなり電話をかけた。 平成3年卒業で、現在は石川県能美市役所に勤務する上戸雅彦君だ。 彼は大学4年時に第2回カナダ遠征メンバーに選ばれた1人だった。故障がちの日々が多い中でも真摯に競技に取り組み、常に前向きにチームを鼓舞する彼の存在は、チームの誰もが認めるところであった。 彼のカナダ遠征選出をみんなが後押ししているような気運を感じ、彼をカナダに連れて行ってやりたいと心から思える人材であった。 出発2週間前のある日の夜に彼が私のところに遠征辞退を申し入れに来た。かねてより故障で苦しんできた坐骨神経の痛みが強くなり、走りに支障が出るからとのことであった。チームメイトはもとよりコーチングスタッフにも「サポートに回ってもいいから一緒に行こう」と声をかけられ、その言葉に甘える自分がいてはチームのためにならないと気づいた彼の決心だったらしい。 結果、彼は大舞台と呼べるステージに一度も立たずに卒業して行ったわけだが、今は地元でジュニアクラブチームの指導や、最近では中学の部活動の学外指導員として陸上競技の指導にあたっているという。 そんな彼は、なんと新婚旅行にカナデイアンロッキーを巡る旅を選んだそうだ。カナダの地で自分が走ったかもしれないコースに佇んで感慨に耽っていたという。学生時代のさまざまな思いが蘇ったことだろう。 ふと振り向くと、新妻はその姿に涙を浮かべていたと聞いた。奥様も陸上経験者ということで彼の心象風景が心に届いたのかもしれない。きっと旅をしながらあれやこれやと学生時代を振り返り、話して聞かせてあげたからだろう。 ランナーとして名を刻むことは少なかったかもしれないが、私が指導したかけがえのない部員としての彼は、深く心に刻まれている。 だからこそ、このコラムを書き始めて彼に電話をかけて声が聞きたくなったのだ。熱くほろ苦い思い出も、その時のチームと共有できればこそ、これほど強く結ばれる絆はないと思う。上田誠仁 Ueda Masahito/1959年生まれ、香川県出身。山梨学院大学スポーツ科学部スポーツ科学科教授。順天堂大学時代に3年連続で箱根駅伝の5区を担い、2年時と3年時に区間賞を獲得。2度の総合優勝に貢献した。卒業後は地元・香川県内の中学・高校教諭を歴任。中学教諭時代の1983年には日本選手権5000mで2位と好成績を収めている。85年に山梨学院大学の陸上競技部監督へ就任し、92年には創部7年、出場6回目にして箱根駅伝総合優勝を達成。以降、出雲駅伝5連覇、箱根総合優勝3回など輝かしい実績を誇るほか、中村祐二や尾方剛、大崎悟史、井上大仁など、のちにマラソンで世界へ羽ばたく選手を多数育成している。2022年4月より山梨学院大学陸上競技部顧問に就任。 |
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