2021.01.22
山梨学大の上田誠仁監督の月陸Online特別連載コラム。これまでの経験や感じたこと、想いなど、心のままに綴っていただきます!
第5回「New Normal」に果たすスポーツの力 ~第97回箱根駅伝に思う~
披露宴のスピーチで時たま耳にする言葉に「人生には三つの坂があります。上り坂と下り坂、そして、まさかです」という行がある。
夫婦2人で手を取り合い、人生を歩んで行くにあたって、上り坂も下り坂も、ましてや“まさか”の時も、お互いに助け合い、慈しみあって乗り越えていってほしい、とのエールの意味合いであろう。
コロナ禍に翻弄された“まさか”の1年の節目に、97回目の東京箱根間往復大学駅伝競走(以下、箱根駅伝)が開催され、終了した。
1年前の96回大会を思い返すと、私は隊列の先頭を走行する広報車に乗っていた。沿道で声援を送る皆様方に向かって「旗は降らないで声をかけてあげてください。皆様が一斉に旗を振ると旗の音であなたの声が掻き消されてしまいます。旗は降らないで、選手に皆様の声を届けましょう」とアナウンスしていた。
ところが、今大会では「沿道に出ての応援はお控えください。テレビなどでの応援、観戦をお願いいたします」と訴えることになった。“応援したいから、応援にいかない”というキャッチコピーとともに、箱根駅伝の応援に関するお願いに、まさかこのような項目を入れなければならなくなるとは夢にも思っていなかった。
そのお願いの冒頭の文章に思いを込めて、「沿道で応援していただく皆様に箱根駅伝は育てられてきました。これからも、末永く愛される箱根駅伝でありたいと思っております。応援マナーにご協力をお願いします」と記している。
たとえ不便で不自由であっても、感染症対策を優先した中で何とか予選会(10月17日)を開催し、本戦のスタートの号砲を鳴らすことができた。そして、無事に21チームがフィニッシュできたことに、関係者はもとより、ご協力いただいた駅伝ファンの皆様に、心を込めて感謝の意を伝えたい。
箱根駅伝も、その他のトラックレースと同様に日本陸連から提示されているロードレース開催にあたってのガイダンスに則して、大会終了後2週間の健康観察報告書提出の義務がある。1月下旬にさしかかった現在、すべての大会関係者の中から新型コロナウイルスに感染したという報せは耳に入っておらず、健やかに過ごされていることを確認して小さく安堵のため息をついた。
大会本部の調べによると、箱根駅伝往復10区間217.1kmのコース沿道の観戦者数は昨年の大会が121万人に対して、今回は85%減の18万人であった。
新聞の紙面やTVコマ―シャル・ラジオ・交通広告も、沿道での観戦を控えていただくことを促すように作成していただき、箱根駅伝公式サイトなども通して、出来る限り多くの皆様方の協力を得られるよう啓蒙活動に協力いただいた。
大会当日はコース沿道に警備スタッフを増強して配置し、学生補助員は「沿道での観戦はご遠慮ください」と書かれたプラカードを掲げるなど、立ち止まっての観戦を控えていただくよう呼びかけた。特に混雑が予想される東京・大手町、箱根・芦ノ湖のスタート、フィニッシュ地点、各中継所では立ち入りを規制させていただいた。駅伝ファンの皆様方が、粛々と指示に従っていただいたことにも感謝したい。
大会当日はプラカードを掲げた学生補助員が沿道での観戦を控えるように訴えかけた
度重なる会議の話題で、毎年100万人以上の観衆を誘発する新春のスポーツイベントである箱根駅伝が、果たして一般の方々の協力を得られるのかが憂の中心であった。数字の評価には多角的な視点と評価基準を置かなければならないので、単純に賛否を述べるべきではない。とはいえ、約100万人以上の駅伝ファンの皆様が、大会開催と運営にご協力いただいたと素直に捉えている。“応援したいから、応援にいかない”という、自己意思決定を促す言葉と思いを受け取っていただいたことに感涙の思いである。
では、沿道に出ておられた18万人の方々に関してはどうなのか、と誹りを受けたとする。私は以下のように受け止めている。
防災用語に「正常性バイアス」というものがある。これは、水害、地震、津波、火災などの危険が目の前に迫っていても、日常生活の延長線上の出来事だと判断して、「自分は大丈夫」「まだ安全だ」などと思い込んでしまう、人間の心理的な傾向を指す用語である。人には日々の生活の中で生じる、予期せぬ変化や新たな事象に、心が過剰に反応して疲弊しないようにする必要な働きが備わっているそうだ。
少なからずこの作用が働き、沿道に出てこられた方もおられることは、私とて同じ衝動を持つ一人の人間としてここで否定できない。またその事とは関係なく、近隣にお住まいの方や、デパートなど買い物ついでに顔を出されたかたもおいでだろう。その方々も含めて健やかなる日々を過ごされていることを願っている。
Withコロナの時代に、新たなスポーツ観戦の形を示す大会となれば、との思いで、2日間にわたって読売新聞社に設けられた大会本部でオペレーションの末端を担当した。時折TV映像に映り込む沿道の観戦者に対して、ご意見の電話をいただいたりもした。隊列の進行状況を示すPC画面を横目に、ひたすら前を見据えてゴールを目指す選手を見るにつけ、それを支えてきたスタッフや家族・献身的に大会運営に協力していただいている警視庁・神奈川県警やスタッフの皆様方の連携を思うと、様々いただいたご意見も含め、コロナ禍における「New Normal」に果たすスポーツの力をますます信じたくなった。
※New Normal
2020年は世界にとって大きな転換期となる時代を迎えた。新型コロナウイルスの感染拡大は収束の糸口が見えず、緊急事態宣言の発令など従来の生活様式を根底から覆すような事態が生まれている。このような時代における大きな転換期を「ニューノーマル」と呼ぶ。新型コロナウイルスとの共存が必要となった現在、ニューノーマルを意識した行動が求められるようになった。
「ニューノーマル」とは「New(新しい)」と「normal(常態)」を組み合わせた言葉で「新常態」とも呼ばれる。
上田誠仁 Ueda Masahito/1959年生まれ、香川県出身。山梨学院大学スポーツ科学部スポーツ科学科教授。順天堂大学時代に3年連続で箱根駅伝の5区を担い、2年時と3年時に区間賞を獲得。2度の総合優勝に貢献した。卒業後は地元・香川県内の中学・高校教諭を歴任。中学教諭時代の1983年には日本選手権5000mで2位と好成績を収めている。85年に山梨学院大学の陸上競技部監督へ就任し、92年には創部7年、出場6回目にして箱根駅伝総合優勝を達成。以降、出雲駅伝5連覇、箱根総合優勝3回など輝かしい実績を誇るほか、中村祐二や尾方剛、大崎悟史、井上大仁など、のちにマラソンで世界へ羽ばたく選手を多数育成している。 |
第5回「New Normal」に果たすスポーツの力 ~第97回箱根駅伝に思う~
披露宴のスピーチで時たま耳にする言葉に「人生には三つの坂があります。上り坂と下り坂、そして、まさかです」という行がある。 夫婦2人で手を取り合い、人生を歩んで行くにあたって、上り坂も下り坂も、ましてや“まさか”の時も、お互いに助け合い、慈しみあって乗り越えていってほしい、とのエールの意味合いであろう。 コロナ禍に翻弄された“まさか”の1年の節目に、97回目の東京箱根間往復大学駅伝競走(以下、箱根駅伝)が開催され、終了した。 1年前の96回大会を思い返すと、私は隊列の先頭を走行する広報車に乗っていた。沿道で声援を送る皆様方に向かって「旗は降らないで声をかけてあげてください。皆様が一斉に旗を振ると旗の音であなたの声が掻き消されてしまいます。旗は降らないで、選手に皆様の声を届けましょう」とアナウンスしていた。 ところが、今大会では「沿道に出ての応援はお控えください。テレビなどでの応援、観戦をお願いいたします」と訴えることになった。“応援したいから、応援にいかない”というキャッチコピーとともに、箱根駅伝の応援に関するお願いに、まさかこのような項目を入れなければならなくなるとは夢にも思っていなかった。 そのお願いの冒頭の文章に思いを込めて、「沿道で応援していただく皆様に箱根駅伝は育てられてきました。これからも、末永く愛される箱根駅伝でありたいと思っております。応援マナーにご協力をお願いします」と記している。 たとえ不便で不自由であっても、感染症対策を優先した中で何とか予選会(10月17日)を開催し、本戦のスタートの号砲を鳴らすことができた。そして、無事に21チームがフィニッシュできたことに、関係者はもとより、ご協力いただいた駅伝ファンの皆様に、心を込めて感謝の意を伝えたい。 箱根駅伝も、その他のトラックレースと同様に日本陸連から提示されているロードレース開催にあたってのガイダンスに則して、大会終了後2週間の健康観察報告書提出の義務がある。1月下旬にさしかかった現在、すべての大会関係者の中から新型コロナウイルスに感染したという報せは耳に入っておらず、健やかに過ごされていることを確認して小さく安堵のため息をついた。 大会本部の調べによると、箱根駅伝往復10区間217.1kmのコース沿道の観戦者数は昨年の大会が121万人に対して、今回は85%減の18万人であった。 新聞の紙面やTVコマ―シャル・ラジオ・交通広告も、沿道での観戦を控えていただくことを促すように作成していただき、箱根駅伝公式サイトなども通して、出来る限り多くの皆様方の協力を得られるよう啓蒙活動に協力いただいた。 大会当日はコース沿道に警備スタッフを増強して配置し、学生補助員は「沿道での観戦はご遠慮ください」と書かれたプラカードを掲げるなど、立ち止まっての観戦を控えていただくよう呼びかけた。特に混雑が予想される東京・大手町、箱根・芦ノ湖のスタート、フィニッシュ地点、各中継所では立ち入りを規制させていただいた。駅伝ファンの皆様方が、粛々と指示に従っていただいたことにも感謝したい。 大会当日はプラカードを掲げた学生補助員が沿道での観戦を控えるように訴えかけた 度重なる会議の話題で、毎年100万人以上の観衆を誘発する新春のスポーツイベントである箱根駅伝が、果たして一般の方々の協力を得られるのかが憂の中心であった。数字の評価には多角的な視点と評価基準を置かなければならないので、単純に賛否を述べるべきではない。とはいえ、約100万人以上の駅伝ファンの皆様が、大会開催と運営にご協力いただいたと素直に捉えている。“応援したいから、応援にいかない”という、自己意思決定を促す言葉と思いを受け取っていただいたことに感涙の思いである。 では、沿道に出ておられた18万人の方々に関してはどうなのか、と誹りを受けたとする。私は以下のように受け止めている。 防災用語に「正常性バイアス」というものがある。これは、水害、地震、津波、火災などの危険が目の前に迫っていても、日常生活の延長線上の出来事だと判断して、「自分は大丈夫」「まだ安全だ」などと思い込んでしまう、人間の心理的な傾向を指す用語である。人には日々の生活の中で生じる、予期せぬ変化や新たな事象に、心が過剰に反応して疲弊しないようにする必要な働きが備わっているそうだ。 少なからずこの作用が働き、沿道に出てこられた方もおられることは、私とて同じ衝動を持つ一人の人間としてここで否定できない。またその事とは関係なく、近隣にお住まいの方や、デパートなど買い物ついでに顔を出されたかたもおいでだろう。その方々も含めて健やかなる日々を過ごされていることを願っている。 Withコロナの時代に、新たなスポーツ観戦の形を示す大会となれば、との思いで、2日間にわたって読売新聞社に設けられた大会本部でオペレーションの末端を担当した。時折TV映像に映り込む沿道の観戦者に対して、ご意見の電話をいただいたりもした。隊列の進行状況を示すPC画面を横目に、ひたすら前を見据えてゴールを目指す選手を見るにつけ、それを支えてきたスタッフや家族・献身的に大会運営に協力していただいている警視庁・神奈川県警やスタッフの皆様方の連携を思うと、様々いただいたご意見も含め、コロナ禍における「New Normal」に果たすスポーツの力をますます信じたくなった。 ※New Normal 2020年は世界にとって大きな転換期となる時代を迎えた。新型コロナウイルスの感染拡大は収束の糸口が見えず、緊急事態宣言の発令など従来の生活様式を根底から覆すような事態が生まれている。このような時代における大きな転換期を「ニューノーマル」と呼ぶ。新型コロナウイルスとの共存が必要となった現在、ニューノーマルを意識した行動が求められるようになった。 「ニューノーマル」とは「New(新しい)」と「normal(常態)」を組み合わせた言葉で「新常態」とも呼ばれる。上田誠仁 Ueda Masahito/1959年生まれ、香川県出身。山梨学院大学スポーツ科学部スポーツ科学科教授。順天堂大学時代に3年連続で箱根駅伝の5区を担い、2年時と3年時に区間賞を獲得。2度の総合優勝に貢献した。卒業後は地元・香川県内の中学・高校教諭を歴任。中学教諭時代の1983年には日本選手権5000mで2位と好成績を収めている。85年に山梨学院大学の陸上競技部監督へ就任し、92年には創部7年、出場6回目にして箱根駅伝総合優勝を達成。以降、出雲駅伝5連覇、箱根総合優勝3回など輝かしい実績を誇るほか、中村祐二や尾方剛、大崎悟史、井上大仁など、のちにマラソンで世界へ羽ばたく選手を多数育成している。 |
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