HOME 国内、世界陸上、日本代表
【コラム】やり投金メダリスト・北口榛花 コーチ不在から単身チェコへ 逆境をチャンスに変え、つかみ取った世界への扉の鍵
【コラム】やり投金メダリスト・北口榛花 コーチ不在から単身チェコへ 逆境をチャンスに変え、つかみ取った世界への扉の鍵

一時期指導者不在という時期もあったが、単身チェコに渡り、シェケラック・コーチの指導を受け手世界レベルへと成長した

ブダペスト世界選手権の女子やり投で、北口榛花(JAL)が金メダルを獲得した。女子ではオリンピック・世界選手権を通じてマラソン以外で初の快挙。男女投てき種目としてはハンマー投の室伏広治(アテネ五輪、テグ世界選手権)に次いで2人目となる。

2018年の秋、確か国体を終えた後のこと。別の選手の取材で日大を訪れた時に、練習していた北口とこんな話をしたのを覚えている。

「海外に行かないの?」
「行きたいんですけど……」

高校からやり投を始めインターハイ2連覇。高校記録も、U20日本記録も塗り替え、U18で世界一にも輝いた。そんな大器は、大学1年時にリオ五輪を目指して無理な投げをしたことで右肘を故障。その後、チーム内の指導体制が変わったことでやり投専門のコーチが不在となった。

これまで何度も北口の涙を見てきたが、18年の日本選手権は一番印象に残っている。1回目は50mオーバーを見せたものの納得がいかず、自らファウルラインを越えて記録を消した。残り2回で、4回目以降に進める上位8人に入れるはず。しかし、その後は50mを越えられずトップ8漏れ。12位だった。

取材エリアにもタオルで顔を覆うほど号泣。誰もが声をかけられず、記者自身も止めるかどうかためらった。「ちょっとだけいいですか?」。北口はしっかり立ち止まり、止まらない涙を拭いながら2、3問答えた。

広告の下にコンテンツが続きます

「日本選手権の時は声をかけてごめん。でも、ああいった結果でも話さないといけない選手だと思っているから」。そう言うと、「大丈夫です。わかっています」と答えてくれた。なんと聡明で強いことかと思った。

後で聞くと、コーチ不在や記録・結果へのプレッシャーから食事も喉を通らず、体重も激減。身体が軽く動いていたから調子が良いと勘違いしていたが、パフォーマンスを発揮できる状態ではなかった。家族にも心配をかけまいと相談できていなかったが、日大の先輩たちが異変に気づいてくれた。

当時、どんなに苦しくても必ずグラウンドには足を運んだという。

「陸上で大学に来て、辞めたら何も残らない。同級生たちは受験勉強をして大学に進学して、教員になりたから教育学部、医師を目指して医学部、と目標を自分で決めていました。だから、結果が出なかったとしても絶対に辞めない、と心に決めていました。水泳、バドミントン、勉強、いろいろな選択肢の中でやり投を選んで、あの時、あれを選んでいればよかった……という後悔をしたくない」

少しずつ復調し、秋に日本インカレ、国体を連勝し、これから冬季練習、という時期だった。

「このままでも日本記録は出ると思うけど、僕は世界一を目指す選手だと思っている。だから、状況が許されるなら海外に行っちゃえばいいんじゃない?」
「私も行きたいんですけど、どこでもいいわけじゃないですし。高校時代からドイツやフィンランドにも行っていますが、合う・合わないもあるので……」

そうだよね、と相づちを打つと、

「もうすぐ、フィンランドで世界のやり投関係者が集まるカンファレンスがあるんで、そこに行くんです」と北口。「すごい、そんなのがあるんだ。そこで何かつながりができるといいね」。おおむね、そんな会話だった。

その『ワールド・ジャベリン・カンファレンス』で出会ったのが、現在も指導を受けるチェコ人コーチのディヴィッド・シェケラック・コーチだった。

懇親会で、ポーランドとチェコのコーチが談笑しているところに「ちょっとおいで」と手招きされた。

「俺たち、君のこと知っているんだよ。世界ユースも見ていたし、U20世界選手権のときは泣いていたよね」

そう言うと、動画サイトを開いて、北口の投てきの『即席分析会』が始まった。「走るのが遅い」などと指摘され、練習環境を聞かれた北口は「今は大学生で先輩たちと一緒に練習していて、専門のコーチがいない」と説明。4人の表情が一変した。

「東京オリンピックもあるのにどうするの? メダル取りたいでしょ?」
「取りたい」
「何メートル投げたいの?」
「68mを投げたい」
「それならコーチが必要だ」

4人はどこを拠点にして、どんなトレーニングをしているか動画や写真で紹介を始めたという。北口のポテンシャルと愛くるしいキャラクターは、海外の専門家にとっても魅力だった。

「君は68mを投げられる。70mだって夢じゃない。でも、コーチが要る」。チャンスだと思った。「もし私がコーチを頼んだら合宿に行ってもいい?」。答えは全員「YES」だった。

高校時代からあこがれていたチェコは、男女の世界記録保持者(ヤン・ゼレズニー、バルボア・シュポターコヴァ)を生み出したやり投大国。帰国後、すぐにSNSでコーチたちと連絡を取った。最初は別のコーチに依頼したが、最終的に現場にもいたシェケラック・コーチに決めた。

強化費はあるにしても、当時はまだ大学生で金銭面でも不安だったが、「僕はお金ではなく、気持ちを大切にしているから」とシェケラック・コーチは快諾。年が明けて19年2月から1ヵ月ほどチェコでトレーニング。ジュニアのナショナルコーチを務めているだけに、基礎から作り上げる必要があった当時の北口とマッチした。

帰国して迎えた19年5月に64m36の日本新、秋には66m00まで日本記録を伸ばした。その後の活躍は説明不要。数々の歴史と記録を塗り替えると、今年は67m04と4年ぶりに日本記録を更新。ブダペスト世界選手権はワールドリーダーとして迎えた。そして、23年8月25日、北口は世界の頂点に立った。

今も1年の半分近くは日本におらず、欧州を拠点に世界中を飛び回る。今では英語やチェコ語で海外メディアからのインタビューも応えている。「世界一」の夢を叶えた北口の幼い頃のもう一つの夢が「世界中を飛び回ること」。そのどちらも自ら選んだ道で一つずつ実現した北口は、次にどんな夢を見ているのだろうか。

文/向永拓史

ブダペスト世界選手権の女子やり投で、北口榛花(JAL)が金メダルを獲得した。女子ではオリンピック・世界選手権を通じてマラソン以外で初の快挙。男女投てき種目としてはハンマー投の室伏広治(アテネ五輪、テグ世界選手権)に次いで2人目となる。 2018年の秋、確か国体を終えた後のこと。別の選手の取材で日大を訪れた時に、練習していた北口とこんな話をしたのを覚えている。 「海外に行かないの?」 「行きたいんですけど……」 高校からやり投を始めインターハイ2連覇。高校記録も、U20日本記録も塗り替え、U18で世界一にも輝いた。そんな大器は、大学1年時にリオ五輪を目指して無理な投げをしたことで右肘を故障。その後、チーム内の指導体制が変わったことでやり投専門のコーチが不在となった。 これまで何度も北口の涙を見てきたが、18年の日本選手権は一番印象に残っている。1回目は50mオーバーを見せたものの納得がいかず、自らファウルラインを越えて記録を消した。残り2回で、4回目以降に進める上位8人に入れるはず。しかし、その後は50mを越えられずトップ8漏れ。12位だった。 取材エリアにもタオルで顔を覆うほど号泣。誰もが声をかけられず、記者自身も止めるかどうかためらった。「ちょっとだけいいですか?」。北口はしっかり立ち止まり、止まらない涙を拭いながら2、3問答えた。 「日本選手権の時は声をかけてごめん。でも、ああいった結果でも話さないといけない選手だと思っているから」。そう言うと、「大丈夫です。わかっています」と答えてくれた。なんと聡明で強いことかと思った。 後で聞くと、コーチ不在や記録・結果へのプレッシャーから食事も喉を通らず、体重も激減。身体が軽く動いていたから調子が良いと勘違いしていたが、パフォーマンスを発揮できる状態ではなかった。家族にも心配をかけまいと相談できていなかったが、日大の先輩たちが異変に気づいてくれた。 当時、どんなに苦しくても必ずグラウンドには足を運んだという。 「陸上で大学に来て、辞めたら何も残らない。同級生たちは受験勉強をして大学に進学して、教員になりたから教育学部、医師を目指して医学部、と目標を自分で決めていました。だから、結果が出なかったとしても絶対に辞めない、と心に決めていました。水泳、バドミントン、勉強、いろいろな選択肢の中でやり投を選んで、あの時、あれを選んでいればよかった……という後悔をしたくない」 少しずつ復調し、秋に日本インカレ、国体を連勝し、これから冬季練習、という時期だった。 「このままでも日本記録は出ると思うけど、僕は世界一を目指す選手だと思っている。だから、状況が許されるなら海外に行っちゃえばいいんじゃない?」 「私も行きたいんですけど、どこでもいいわけじゃないですし。高校時代からドイツやフィンランドにも行っていますが、合う・合わないもあるので……」 そうだよね、と相づちを打つと、 「もうすぐ、フィンランドで世界のやり投関係者が集まるカンファレンスがあるんで、そこに行くんです」と北口。「すごい、そんなのがあるんだ。そこで何かつながりができるといいね」。おおむね、そんな会話だった。 その『ワールド・ジャベリン・カンファレンス』で出会ったのが、現在も指導を受けるチェコ人コーチのディヴィッド・シェケラック・コーチだった。 懇親会で、ポーランドとチェコのコーチが談笑しているところに「ちょっとおいで」と手招きされた。 「俺たち、君のこと知っているんだよ。世界ユースも見ていたし、U20世界選手権のときは泣いていたよね」 そう言うと、動画サイトを開いて、北口の投てきの『即席分析会』が始まった。「走るのが遅い」などと指摘され、練習環境を聞かれた北口は「今は大学生で先輩たちと一緒に練習していて、専門のコーチがいない」と説明。4人の表情が一変した。 「東京オリンピックもあるのにどうするの? メダル取りたいでしょ?」 「取りたい」 「何メートル投げたいの?」 「68mを投げたい」 「それならコーチが必要だ」 4人はどこを拠点にして、どんなトレーニングをしているか動画や写真で紹介を始めたという。北口のポテンシャルと愛くるしいキャラクターは、海外の専門家にとっても魅力だった。 「君は68mを投げられる。70mだって夢じゃない。でも、コーチが要る」。チャンスだと思った。「もし私がコーチを頼んだら合宿に行ってもいい?」。答えは全員「YES」だった。 高校時代からあこがれていたチェコは、男女の世界記録保持者(ヤン・ゼレズニー、バルボア・シュポターコヴァ)を生み出したやり投大国。帰国後、すぐにSNSでコーチたちと連絡を取った。最初は別のコーチに依頼したが、最終的に現場にもいたシェケラック・コーチに決めた。 強化費はあるにしても、当時はまだ大学生で金銭面でも不安だったが、「僕はお金ではなく、気持ちを大切にしているから」とシェケラック・コーチは快諾。年が明けて19年2月から1ヵ月ほどチェコでトレーニング。ジュニアのナショナルコーチを務めているだけに、基礎から作り上げる必要があった当時の北口とマッチした。 帰国して迎えた19年5月に64m36の日本新、秋には66m00まで日本記録を伸ばした。その後の活躍は説明不要。数々の歴史と記録を塗り替えると、今年は67m04と4年ぶりに日本記録を更新。ブダペスト世界選手権はワールドリーダーとして迎えた。そして、23年8月25日、北口は世界の頂点に立った。 今も1年の半分近くは日本におらず、欧州を拠点に世界中を飛び回る。今では英語やチェコ語で海外メディアからのインタビューも応えている。「世界一」の夢を叶えた北口の幼い頃のもう一つの夢が「世界中を飛び回ること」。そのどちらも自ら選んだ道で一つずつ実現した北口は、次にどんな夢を見ているのだろうか。 文/向永拓史

次ページ:

       

RECOMMENDED おすすめの記事

    

Ranking 人気記事ランキング 人気記事ランキング

Latest articles 最新の記事

2025.03.28

【世界陸上プレイバック】五輪ボイコットきっかけに創設!クラトフヴィロヴァが女子400mと800mで今も大会記録に残る2冠 日本は室伏重信ら出場も入賞ゼロ

今年、陸上の世界選手権(世界陸上)が34年ぶりに東京・国立競技場で開催される。今回で20回目の節目を迎える世界陸上。日本で開催されるのは1991年の東京、2007年の大阪大会を含めて3回目で、これは同一国で最多だ。これま […]

NEWS 【高校生FOCUS】女子三段跳・山﨑りりや(鳴門渦潮高)日本高校女子初の13m到達、大学で学生記録挑戦

2025.03.28

【高校生FOCUS】女子三段跳・山﨑りりや(鳴門渦潮高)日本高校女子初の13m到達、大学で学生記録挑戦

FOCUS! 高校生INTERVIEW 山﨑りりや Yamasaki Ririya 鳴門渦潮高3徳島 高校アスリートをフォーカスするコーナー。年度末を迎えますが、振り返ってみれば、2024年度は高校生による日本記録樹立を […]

NEWS 3泊4日の全国高体連合宿終了! 「高め合える仲間がいっぱいできた」 来年度は宮崎で開催予定

2025.03.28

3泊4日の全国高体連合宿終了! 「高め合える仲間がいっぱいできた」 来年度は宮崎で開催予定

大阪・ヤンマースタジアム長居を主会場に行われた2024年度の日本陸連U-19強化研修合宿・全国高体連陸上競技専門部強化合宿が3月28日、3泊4日の全日程を終えた。全国から集まった選手たちは交流を深め、試合での再会を誓った […]

NEWS 資格停止中の競歩・池田向希がCASに不服申し立て「一日も早く競技 を再開」

2025.03.28

資格停止中の競歩・池田向希がCASに不服申し立て「一日も早く競技 を再開」

旭化成は3月28日、所属選手である競歩の池田向希が受けたアンチ・ドーピング規則違反による4年間の資格停止処分について、スポーツ仲裁裁判所(CAS)に不服申し立てを行ったと発表した。 男子20km競歩で東京五輪銀メダリスト […]

NEWS 【男子円盤投】福宮佳潤(東京高1) 50m73=高1歴代2位&4人目の50mオーバー

2025.03.28

【男子円盤投】福宮佳潤(東京高1) 50m73=高1歴代2位&4人目の50mオーバー

3月28日、東京都多摩市の国士大多摩陸上競技場で第7回国士大競技会が行われ、高校用規格の男子円盤投(1.75kg)において福宮佳潤(東京高1)が50m73をマークした。この記録は高校1年生の歴代ランキングで2位。高1で史 […]

SNS

Latest Issue 最新号 最新号

2025年4月号 (3月14日発売)

2025年4月号 (3月14日発売)

別冊付録 2024記録年鑑
山西 世界新!
大阪、東京、名古屋ウィメンズマラソン詳報

page top