Special Close-up新谷仁美(『月刊陸上競技』2019年4月号誌面転載記事)

Special Close-up
女子長距離 新谷仁美(NIKE TOKYO TC)

決意の「プロ・ランナー」 過去の自分を超えるために再挑戦

2013年モスクワ世界選手権の女子10000m。世界中の視線を集めたのが新谷仁美(NIKE TOKYO TC/当時、ユニバーサルエンターテインメント)だった。3500m付近で先頭に立つと、9500m付近までトップを走り続ける。結果は自己ベストの30分56秒70で、アフリカ勢を除いた中ではトップとなる5位入賞。しかし、このレースを最後に突如、「引退」を発表した。
〝空白の5年間〟を経て、昨年6月に現役復帰。今年1月の全国都道府県対抗女子駅伝9区では、逆転のVテープを切った愛知の鈴木亜由子(日本郵政グループ)ら有力選手を抑えて区間賞を獲得するなど、全盛期を思わせる水準まで戻してきた。
驚くべき短期間に〝復活〟し、さらなる〝進化〟への道を突き進む新谷の、決意に迫った。

「復活」とは思っていない

2018年6月9日。日体大長距離競技会に新谷仁美の姿があった。約5年間のブランクを経て、NIKE TOKYO TC所属でレース復帰。3000m6組に出場した新谷は、吉川侑美(資生堂)に次ぐ9分20秒74(2着)で走ったものの、「8分台は高校生でも当たり前。普通に遅いなぁと思いましたね(笑)」と振り返った。

その後のレースも、「うまく出し切れていない」という状態が続いた。7月11日のホクレン・ディスタンスチャレンジ深川大会5000mは、グレース・ブティエ・キマンズィ(スターツ)に約15秒遅れの15分35秒19(2着)。10月14日の秋季新潟県記録会兼北陸実業団記録会5000mはトップの田中希実(ND28AC)から約8秒遅れの15分24秒01(2着)だった。

「2018年は『タイムを出すこと』が目標でした。5000mの大会に出るためには、(資格記録を得るために)まずは3000mの記録会に出るしかない。3000mを走って、5000mを走って、10000m。そう考えていたんですけど、最初の3レースは思うように走れなかったですね。終わったことをグチグチ言うタイプではないので、切り替えて次に向けてやるしかない、という気持ちで走ってきました」

新谷のなかで〝感覚〟が変わったのが、11月11日の東日本女子駅伝だった。東京の最終9区に出場した新谷は4人を抜き去り、優勝ゴールに飛び込んだ。10kmを区間新記録となる31分08秒で走破。区間2位の清田真央(スズキ浜松AC)に1分27秒差をつける爆走は、華麗なる復活劇に見えた。だが、30歳になった新谷は、かつての自分との〝違い〟を感じている。

「東日本からだんだんと(力を)出し切れるようになってきたのかなと思います。ただ、走っていて感じるのは昔ほどの〝勢い〟がないんです。勢いは若さのなかにある力だと思うので、年齢とともに欠けていきます。でも、そこは経験でカバーできるのかな」

東日本女子駅伝から1ヵ月後、新谷はまた一段ギアを上げてきた。12月13日に豪州・メルボルンで行われた「ザトペック10」の10000mを31分32秒50で制して、ドーハ世界選手権の参加標準記録(31分50秒00)を突破したのだ。それでも、新谷は笑顔を見せていない。

「2019年に必要なタイムは出せたかなと思うんですけど、最低限ですね。31分半では、世界大会を考えるとビリの方ですし……。皆さんは『復帰』と言ってくださるんですけど、私の中では復帰ではなく、『新たな仕事を始めた』感じです。プロランナーとして競技を続けている以上、たとえ自己ベストや日本記録を出したとしても、私は満足感を得ることができません。とはいえ、過去の自分を超えたいという思いはあります」

5年間の時を経て、再びトラックに立った新谷。プロランナーとしてリスタートを切った元・女王に何があったのだろうか。

突然の引退と電撃復帰

岡山・興譲館高時代に全国高校駅伝1区で3年連続の区間賞を獲得した逸材は、実業団でも活躍した。社会人1年目の2007年、19
歳を目前に初マラソンに挑んだ東京で初代女王になっているが、最も強烈な輝きを放ったのが、24~25歳の時だろう。

2012年は日本選手権5000mで初優勝を飾ると、ロンドン五輪に出場した。陸上初日の10000mは日本人3人目の30分台となる30分59秒19で9位。4日後の5000m予選では決勝進出はならなかったものの、当時日本歴代7位となる15分10秒20をマークした。

翌年は日本選手権10000mで全員を周回遅れにする圧巻の独走劇で、31分06秒67の大会新V。この頃の新谷は、国内では圧倒的な存在となっていた。そして、新谷自身の〝ベストレース〟と言えるモスクワ世界選手権10000mで、世界にインパクトを与えた。

3500m付近から先頭に立つと、エチオピアやケニア勢を後ろに引き連れて、9500m付近までレースを牽引し続けた。トップを奪った段階では新谷を含む9人だった集団は、残り500mで5人に。1000m3分03秒のハイペースを刻む新谷に、世界の強豪たちが耐え切れなくなったのだ。

ラスト勝負でティルネシュ・ディババ(エチオピア)らに屈したが、自己ベストの30分56秒70で5位入賞。その成績とともに、日本人ランナーが世界と勝負するためには〝これしかない〟というレースを示した。

ところが、その後は表舞台から姿を消し、翌2014年1月25日に「引退」を表明。表向きには〝突然〟に映ったが、新谷自身はモスクワまで、まさに死力を尽くしていたのだった。

「引退の理由はロンドン五輪の後に右踵部分を痛めたことです」

医師からは、「手術をしても治るか、治らないかは五分五分」と診断されたほど、難しい箇所のケガだった。

「手術までして競技を続けようとは思いませんでした。オリンピックも出たし、年齢的にも次の世界陸上でやめてもいいのかな、と。最後は痛み止めの注射を打って走っていました」

所属していたユニバーサルエンターテインメントを退社した後は、OLに転身。事務職をしながら、〝一般女性〟として過ごした。しかし、ナイキから「復帰」を打診され、新谷の心境に変化が表れた。

「最初はやる気がなくて断っていたんですけど、ちょっと悔いが残る状態でやめちゃったかなと思うようになったんです。当時は完全燃焼したという気持ちがあったんですけど……。足が痛くなければ、もしかしたらメダルに届いたかもしれない、と。あとOLでお金を貯めるよりも、陸上の方が手っとり早く稼げると思いました(笑)」

新谷は2017年夏にナイキと所属契約を結び、再び、走り出した。

※この続きは2019年3月14日発売の『月刊陸上競技』4月号をご覧ください