スポットライト 藤本 拓(『月刊陸上競技』2018年12月号誌面転載記事)

〝ガラスのエース〟が2時間7分台へ!!
シカゴで快走、東京五輪有力候補に名乗り

故障が多くても、試合になるとシャープな走りを披露する。藤本拓(トヨタ自動車)ほど「ガラスのエース」という言葉がぴったりなランナーはいないだろう。過去に疲労骨折は10回以上。ケガに苦しんだ29歳が2度目のマラソンでサプライズを巻き起こした。大迫傑(ナイキ・オレゴン・プロジェクト)の日本記録に沸いた10月7日のシカゴで2時間7分57秒(8位)の快走を見せたのだ。一躍、東京五輪の男子マラソン代表争いに名乗りを上げた藤本。その数奇な競技人生と、未知なる可能性に迫った。

友人の誘いですべてが始まった

 藤本拓(トヨタ自動車)の競技人生は「陸上の神様」に導かれるように進んできた。そのスタートは小学生時代。山口県周南市出身で少年野球をやっていた藤本は、友人の「練習時間が短くて、バーベキューもやるよ!」という誘い文句から地元のスポーツ少年団で陸上を開始する。長距離がメインのクラブだった。
 菊川小を卒業して進んだ周南菊川中では部活動の入部が義務付けられており、陸上部がなかったため、テニス部に入ろうと思っていたという。しかし、スポーツ少年団の監督から「陸上をやったほうがいい」と勧められて、特例としてクラブで陸上を続けることになったスポーツ少年団の練習は水、土、日の週3回だが、「あまり練習した記憶がない」と藤本は振り返る。
「スポーツ少年団がない日も練習するように言われていたんですけど、練習せずに遊んでいました(笑)。中学時代は3000mが9分17秒ぐらいで、山口県で10番くらいの選手でした」
 高校受験の前には、陸上に誘ってくれた友人から「一緒に西京を倒そう!」と再び声をかけられた。「あまり深く考えない性格」だという藤本はすぐに快諾。友人と一緒に高水高への進学を決めた、はずだった。それが友人は直前に志望校を西京高へ方向転換。藤本だけが高水高に進むことになる。
「学校までは自宅から電車で1時間ちょっとで、通えないことはなかったんですけど、寮で生活しました。寮の食事はとらず、ファストフードばかり食べていましたね(笑)」
 偏食もあり、高校時代から故障が多かった藤本は、「高校駅伝の1区は長いし、きついので走りたくない」と口に出すほどのマイペースな選手だった。それでも3年時には5000mでインターハイに出場するほどの実力をつける。しかし、西京高の壁は厚かった。山口県高校駅伝は2、3年時に1区を走ったが、同学年の刀祢健太郎に1分以上の差をつけられ、チームも完敗した。
「高校時代を振り返ると、西京には勝てなかったですけど、自主性を重んじてくれる指導で、伸びしろを残していただきました。大浦唯志先生には本当に感謝しています。先生からは『長い距離が向いている』と言われてきたんです。でも、ケガが多かったので、そこまでの練習ができませんでした」
 ちなみに、藤本を陸上人生に導いた友人は現在、プロの格闘家をしているという。

関東インカレ5000mで連覇

「陸上は高校でやめて就職しよう」と考えていた藤本だが、大浦先生の「箱根駅伝を目指せ!」という言葉に押されるかたちで、国士大に進学した。
「五十嵐克三駅伝監督(当時)も熱心でしたし、まあいいかという感じでしたね。山梨学大にも誘われていたんですけど、厳しいと聞いていて。正直、国士大がどんなチームかわからなかったんですけど、厳しくないほうがいいかなと思ったんです。でも、国士大も上下関係は厳しかったですよ(笑)」
 同学年には後にコニカミノルタで活躍する伊藤正樹がいたが、実力差は歴然だった。入学時の5000mベストは伊藤が14分09秒80で、藤本は14分36秒85。1年時からチームの主力になった伊藤に対して、藤本は故障が続いた。2年時までは距離走で20kmをやったかどうかというほどで、1~2年時の箱根予選会には出場していない。しかし、2年時の10月には故障明けにもかかわらず5000mで13分57秒57と13分台に突入すると、11月には10000mで28分44秒88をマークして周囲を驚かせた。
 そんな藤本が一躍注目を集めたのが3年時(2010年)の関東インカレ5000mだ。鎧坂哲哉(明大/現・旭化成)、村澤明伸(東海大/現・日清食品グループ)を僅差で抑え、13分38秒68で優勝。圧巻のスパート力を見せている。
「この時は調子が良くなくて、棄権しようと考えていたんです。でも、治療院で診てもらったら、『これは気持ちの問題だね』と言われて、次の日に刺激をやったら普通に動いたので、これはいけるかなと思っていたら、走れちゃいました」
 藤本は翌年の関東インカレ5000mも村澤、大迫傑(早大/現・ナイキ・オレゴン・プロジェクト)、鎧坂らに競り勝ち、連覇を達成。それでも、学生駅伝は3年時の全日本1区(区間8位)と4年時の箱根3区(区間3位)しか走っていない。偏食と、独自のトレーニングで戦線離脱することが多かったからだ。
「朝夕は食事が出るんですけど、あまり食べずに、部屋でお菓子ばかり食べていました。お昼は出ないので、アルフォートのファミリーパック1袋とか、ポテトチップス2袋とかでしたね。トレーニングに関しても、常に故障上がりだったので、自由にやらせてもらっていました。ポイント練習は途中で離れたり、やらないことが多かったので、ジョグの後は自分でスピード練習を入れていたんです」
 ジョグの日はグラウンドに戻ってくると、流しもせずに、そのまま800m×1本や200mダッシュをこなしていたという。
「当時は自己ベストを出すことに生き甲斐を感じていたんです(笑)。800mは1分58秒がベストで、200mは24秒台。ジョグの時はかなりの頻度でやっていましたね。そのお陰で、1000mを2分40秒切って入っても速いと感じなかった。今はそういう練習をしていないので、全然スピードが出なくなりました(笑)」
 3年時には10000mでも28分27秒66の国士大記録を樹立した〝ガラスのエース〟に実業団チームは熱視線を送った。その中で藤本が選んだのがトヨタ自動車だった。
「今まで自分の好きなようにやらせていただいたので、今度は強豪チームでやってみたいという気持ちがありました。それと、髙林祐介さんに憧れていたので、一緒に練習したいと思ったんです」

※この続きは2018年11月14日発売の『月刊陸上競技』12月号をご覧ください